ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

中笑企業の光熱水費のこと

2007年05月23日 | 日常・身の回り

中笑企業とて、5月末までに決算の申告をしなければなりません。

光熱水費を、事務所経費として計上します。店主の口座から引き落とされているので、店主立替で未払い費用になっているのを精算します。ナントカ還元水は使っていませんので、微々たる物です。

パソコンを使って、決算書を作り、自己申告をします。経理士さんをお願いしていないので、何かあっても庇ってくれる人はいません。

5万円以下は、領収書要らないと言う事は無く、一円から領収書やレシートを揃えています。

法律にのっとって、処理しているので詳しい説明や申し開きはしません。総理大臣が庇ってくれるので大臣を辞める事もありません。

あっ、いつの間にか中傷企業の社長から、大臣になったような錯覚を起こしていました。 いかん、いかん。

ブログの更新お休みして、決算ジムに精出します。


まあるいいのち

2007年05月22日 | 音楽

先ほど、NHK歌謡コンサートの番組で、イルカさんの歌った「まあるいいのちは、今どき人の命が軽く見られるおり、時宣を得た歌だ。

亡き夫への思いを込めて児童合唱団の子供達と共に、いのちの大切さを歌った「まあるいいのち」。こんな歌がもっとみんなに浸透すると良い。


きっかけは・・・

2007年05月22日 | 一行法師

こちらに来てから、50年余三社祭に出かけた事も、関心も無かった。それが、

電車の中でのこと、杖をついた老婆が乗ってきたので、早速席を譲りました。

それを見て若い人二人が席を立ってくれて、結果もう一人の八十近い爺と、吉天爺が並んで席に腰掛けました。

どちらからとも無く、話しかけましたところ、その爺様はこれから三社祭に行くとのこと。

話しているうちに、近江の出身で、曽祖父(ひいじいさん)は人力車夫でしたが、来朝中のロシア皇太子をのせて滋賀県大津の駅に運んだとき事件はおきたそうです。

これが明治24年(1891)の大津事件で、ロシアの皇太子(後のニコラス2世)を警固の一巡査が切りつけて傷を負わせた。

その巡査を取り押さえたのが、このひとの曽祖父だったとのこと。

褒美に多額の賞金(今なら一億円ぐらい)を貰って喜んでいたと言う。

日露戦争は、それから13年たってからだが、吉天の祖父は明治37年の日露戦争から戻って、世帯を持ち人力車の車夫として糊口をしのいでいた。

先祖は、人力車の車夫つながりで爺と爺の話はしばらく続いた。

江戸東京博物館で、「ロシア皇帝の至宝展」6/17まで開催中の話もしていましたので、曽祖父の武勇伝を誇りに思うひ孫の思い入れが感じられました。

元気な その爺様は、上野の三つ手前で降りて三社祭に歩いてゆくと言う。

(足は丈夫だが、歯は一本も無い。それでも歯茎で結構ものが食べられると言う。歯無しは、話に通じるか。)

ならば、何かのご縁と、吉天も上野から浅草寺、浅草神社へお参りする事にした。

これが吉天の三社祭デビューのきっかけでありました。

一日置いて日曜日、今度は夫婦で三社祭に出かけましたさ。


小庭、森になり。庵、海になる。

2007年05月21日 | 日常・身の回り

いつの間にか、湖子庵の小庭が茂みとなり、さながらのようになった。

庵の中は、書棚からあふれ出たもので、床一面の如くなる。

今日から月末までに平常に戻したい。

とりもなおさず、高枝バサミで朝から天を蓋う枝葉を切り落とした。

これからPCをとじて、床の書籍雑誌を元に戻し、資料雑物を整理し捨てるものは捨て、すっきりしよう。

吉天のテーマの3S、

「新鮮、シンプル、仕上げ」を引き続き進めよう。

いい天気だもんね

身の回りの片付け後まわしにして出かけたくなる意志の弱さよ。

嗚呼ァ。


三社祭

2007年05月19日 | まち歩き

以前記事にした、「人生は巨大なアミダくじ」。 

本日(18日)も、節ごとに折れて曲がって、交差点ごとに青信号になった方に歩いて行ったら、三社祭に行き着いた。アミダくじのようにだ。

浅草寺と、浅草神社におまいりして、途中 御輿や祭り支度の人々に会いながら、帰りも青信号を、右に左にたどって、上野駅に戻った。明日、明後日は混みあって自由に歩けないだろう。

他人からみれば、無駄に歩き回っている暇人としか思われないが、途中、途中の出会いと、見聞録は吉天の人生の栄養素になる。

ネットでなく、リアルで自分の足で歩く事は健康にも良い。

浅草の或る角では、久保田万太郎の生誕の地 句碑に行き当たった。

「浅草にて 、 ふるさとの 月のつゆけさ 仰ぎけり  久保田万太郎」

手元の手帳にメモって帰った。


胃食足りて・・・

2007年05月18日 | ニュー・諺

久々のニュー・諺(ことわざ)。吉天の言葉遊び。

胃食充」の問題は、本能の問題ではない。仕事に直結する。

吉天の場合、人にあって話をするとき 事前に、の腑をたし、ゆったりとした気持ちで対面する。腹が減っては戦が出来ぬと申すではないか。すきっ腹では、どうしても おどおどして話に自信が持てないし、いらいらして相手に不快感をあたえ、まとまる話もまとまらない。

堂々として、鷹揚にかまえて話し合える。国会での党首会談などは「胃食充」のうえ臨むべし。吉天が党首会談するわけではないが。

「胃食充ちて礼節を知る」 あっ、ちょっと無理があったかな。


近江(滋賀)・琵琶湖

2007年05月17日 | ふるさと

近江は、司馬遼太郎や白洲正子さんの紹介で近年、とみに知られる。

このたび父祖の地、近江について「ふるさと」のカテゴリを追加した。

5月1日から、6日まで帰郷して家に、もどったら9日の朝日新聞に、「琵琶湖山分け」なる記事が出ていた。

琵琶湖は、東京都の三分の一に匹敵する面積を持ちながら、滋賀県のどの市町にも組みいられていなかった。

琵琶湖沿岸の14市町に分割してそれぞれに帰属することで、国からの地方交付税の増額につながると言う。各自治体は、その交付税の増加分の一部で琵琶湖の環境保全に役立てる。結構なことだ。

吉天のふるさとの、東近江市も平成の市町村合併で、山の方の永源寺から、琵琶湖に接する能登川までつながり、僅かながら琵琶湖の分割に与った。

滋賀県共有の財産だった琵琶湖が、沿岸の14市町に分割され線引きされると、琵琶湖周辺の観光スポットは、それぞれどの市町に入り、その自治体独自の観光PRや、管理になるのかちょっと気になるところである。おそらくは、県の指導の下、話し合いで総合的な施策がもたれることであろう。

線は引かれても、湖面の下に棲む魚は自由に泳ぎまわり、水鳥も境界に関係なく動き回る。

ちなみに、竹生島は新聞の地図で見ると長浜市に属するようである。近江八景は、大半が大津市に入ると見られる。詳しくは県に問い合わせてみようと思う。

そこで、近江八景についてだが、滋賀銀行の広報誌「湖」No.161に、「近江八景のルーツは中国・洞庭湖にあった!」が参考になる。

名所は、昔 和歌に詠まれて、和歌のイメージで、風景を想像しあこがれた。中国から入った漢詩からも、洞庭湖に遊んだ李白や杜甫の詩情にふれて、日本人は中国の景色をたくみに想像した、とある。

中国・北宋時代(960~1127)、洞庭湖のある湖南省の景勝地、瀟湘(しょうしょう)地方の風光明媚な水景を、宗迪(そうてき)と言う官僚が八景図に描いた。それが、「瀟湘八景」として伝わり日本にも伝えられて、「近江八景」のモデルとなる。

琵琶湖の約6倍と言う洞庭湖の水景「瀟湘八景」を見立てて、足利将軍家がお抱え絵師に命じて描かせて「近江八景」は誕生した。

近江八景                瀟湘八景

      堅田落雁                平沙落雁

      矢橋帰帆                遠浦帰帆

      粟津晴嵐                山市晴嵐

      比良暮雪                江天暮雪

      石山秋月                洞庭秋月

      唐崎夜雨                瀟湘夜雨

      三井晩鐘                煙寺晩鐘

      瀬田夕照                漁村夕照

近江八景が、湖畔の具体的な地名に結びついているのに対し、瀟湘八景は、洞庭と瀟湘を除けば特定の地名はない。広い洞庭湖を物語っているのか。

現代の我々は、この四文字の漢字だけで、どこまで風景を想像できるかである。写真や、絵を補って貰わないとイメージしがたいところだ。

話題は変るが、新幹線の駅が大津に近い栗東に出来るとこだったが、取りやめになった。京都と眼と鼻の先にあって、駅を作るなんて無駄な事だし、財政難の折から中止となって当然の事だ。

ゆっくりと、京都に旅し、近江に旅するには一駅の必要は無い。

室町時代に京の将軍が、あえて近江の国に八景を求め江戸時代にも大人気だったのは国境いを隔てる意識がなかったからだ。

琵琶湖の上に線を引いて美しい景色が想像できますかね。

東京デズニーランドが千葉県にあり、東京国際空港も千葉県にあって、誰も文句言いません。ちまちました事言いこなし。

        


ポスト

2007年05月16日 | 不思議ニッポン

昨日、図書館へ行った。

図書館の入り口脇に、ブック・ポストがある。休館日や、夜間に、借りた図書返却用のポストだ。(昨日は開館中で、窓口を利用)

返却図書を、このポストに投入すると「ゴトン   」と無機質な乾いた音がして終わりであろう。

郵便ポストが、本来のポストで、封書やハガキの差し出し口として明治以来使ってきた。

昔馴染みの赤い円筒形のポストは正式名は「直立円筒上方差し入れ下方引き出し郵便箱」と言うらしい。四角いのが出来てレトロになった。

ポストと言えば、一般的に郵便ポストしか頭に無いが 「赤ちゃんポスト と言う新顔が現れて「郵便ポスト真っ赤な顔して驚いたり怒ったりしている。

国民問う票法が、国会を通り改憲に向けて怪進撃の安倍総理だが、ポスト小泉のあとを受けても、参院選のあとに結果によっては、ポスト安倍なんて交代となることも。

靖国神社も、直接参詣を避けてお供え物をそっとポストに託して届けたのかしら。


そのうちに・・

2007年05月13日 | 一行法師

「そのうち」と言う時間は無い。

「そのうち、ナントカなるだろう。」と半ば諦観に似た気持ちは楽にさせてくれるが、進歩は無い。

たしかに、難しい問題も時間が解決してくれるので、あせってもシャー無い。

しかし、「そのうちに」「そのうちに」と問題を先送りしているうちに、何も出来なくて、いたずらに時間ばかり経ち最後はパニックになる。

思い立ったら吉日と、すぐ行動に移せる人は幸せだ。

おいしい牛乳が飲めるからと、その日のうちに北海道まで飛ぶ人、桜の時季に花を追いかけて北へ旅する人。

何かを始めて、2年ほどですっかりマスターできる人。

人それぞれの思いもあって、誰でも何でもすぐにできるものではない。

やるべき事、やりたい事山ほどあって、どれから手をつけてよいやら迷ったあげく何も出来なくって、放り出す凡人が、かく言う吉天である。

自分の価値観により、優先順位を決めて一つ一つ片付けるのが正当なやり方なのだろう。

しかし、今を逃しては、一年先またはずっと食べられない旬のものは何をおいても食べるべきと思う。と同様に、チャンスは「そのうちに」と言っていると、2度とめぐって来ない。

優先順位の3番以下は「そのうちに」消去されるのが常である。

先送りも、何時、何日と時限を切って予定や計画に入れれば、「そのうち」でなくなる。

「そのうちに」は時間の事ではない。

「そのうちに飯でも食おう」と誘われてご馳走になった例(ためし)は無い。


ご存知か「木炭バス」

2007年05月11日 | 少し昔のお話

もう知っている人も、少なくなったと思うが、戦時中バスの燃料ガソリンが無くて、木炭バスが走っていた。 バスの後部に真っ黒いタンクをしょわせ、薪を7,8センチ大に切ったのを燃やせて煙をはいて走った。

時々エンストするので、乗客は降りて皆でバスを押してエンジンが再びかかるのを待った。運転手は、ボンネットの前で曲がった金具を差込み必死にまわし、ゴトゴトとエンジン音がして発車オーライ。

一方、食糧とて充分にないので、もちろん「バイオエタノール」のような代替燃料の発想は無い。

軍用機のガソリンの補いに、銃後の国民は山へ入って「松脂(まつやに)」をとった。松の木に、ゴムの木からゴムを採取するような傷をつけ、脂(やに)が垂れてくるのが固まったのをとって供出した。

今日の朝日新聞の天声人語のとおり、食糧をバイオ燃料に変えてしまっては、食品の物価が高騰し台所事情が苦しくなる。

これも昔の「エンゲル係数」を再び持ち出さなくてはなるまい。

(人間の考えることは、利口なようで本当はお馬鹿さん。)

「エンゲル係数」=家計に占める飲食費の割合。この係数の割合が大きいほど貧困度が高いとされてきた。