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ラッキー・ドラゴンの悲劇――第五福竜丸展示館

2019年08月01日 | 博物館など
もうすぐ訪れる74回目の広島、長崎の「原爆の日」。日本人の被曝は、広島、長崎、そして2011年の福島だけではない。戦後9年目の1954年3月1日、世界初(それ以前に米ソ各1回水爆実験したが、実戦に使える爆弾としては世界初)の水爆実験で被災した日本人が太平洋上にいた。焼津の漁船、第五福竜丸の乗組員だ。
江東区のはずれ、夢の島に都立第五福竜丸展示館がある。
大きな建物に入ると、長さ28.5m、幅5.9m、高さ15m、総トン数140トンの大型木造船「第五福竜丸」がそっくりそのまま展示され、回りに、被害の様子、木造船の内部の動画、関係書籍などが展示されている。

建物は1976年に東京都が建てたが、運営は第五福竜丸平和協会という民間の財団法人が行っている。
第五福竜丸は1954年1月22日に焼津を出港し、太平洋を時計回りにマグロの遠洋漁業を行ない4分の3ほど終わった3月1日朝6時45分、ビキニ環礁の東160kmの地点で操業していた。そのとき乗組員たちは遠くに閃光を見、しばらくして海底から大きな爆発音を聞いた。しばらくすると空から白い粉が降り注いだ。いわゆる「死の灰」だ。
アメリカが水爆実験を行い、サンゴ礁には直径2000m、深さ60mの巨大なクレーターが出現した。米軍自身の予測を3倍も上回る15メガトンの威力を示した。広島型原爆の1000倍もの威力である。キノコ雲は直径200キロ、高さ3万4000mにまで達した。これをブラボー水爆(米軍による実験のコードネーム)と呼ぶ。
第五福竜丸はは3月14日に焼津に帰港した。すでに水爆に被爆したことはわかっていたので、水揚げしたマグロは2日後の18日築地で廃棄処分され、乗組員は病院に強制的に入院させられた。このことは読売新聞3月16日朝刊1面に「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 23名が原子病」との特ダネ記事で報道された。乗組員23人は放射線に苦しみ、半年後の9月23日無線長の久保山愛吉が40歳で死亡した。23人の年齢は18-39歳、平均年齢25歳と若かった。乗組員23人中久保山も含め2019年現在、19人が亡くなった。ほとんどガンか肝硬変で、60歳までに亡くなった人が7人もいる。被爆の影響が推測される。
これに対し、早くも3月18日には三崎町議会(現・三浦市)で「原子実験停止」の決議がなされ3月27日には地元・焼津市議会で「原子爆弾使用禁止」の決議が行われた。5月には杉並の公民館で学習していた主婦たちが署名運動を始め、翌55年8月1日初の原水爆禁止世界大会が広島で開催され、3000万人署名が発表された。広島・長崎の被災と悲劇からまだ10年ということもあったのだろうが、反応は早く、かつ広範囲で強力だった。

会場に漁船の操業地図が掲示されていた。被爆したのは運の悪い第五福竜丸だけではなかった。政府も東京港、三浦港、焼津港などで被爆漁船と被爆魚の検査に乗り出したが、54年3月から12月までに放射能が検出された漁船はなんと856隻、汚染が測定され築地などで廃棄された魚は485トンに上った。
日本人漁民だけではない。実験地である地元マーシャル諸島の住民たちも被爆した。これらの島は国連統治領で、戦前は日本、戦後は米国が委任統治し、1986年にマーシャル諸島共和国として独立した。
ビキニ島の住民は実験にあたり、キリ島に移住させられ、米軍の放射能撤去作業ののち1970年に帰島したが、強い放射能が検出され、78年に再びキリ島に移住させられた。 
ロンゲラップ島の住民は実験3年後に故郷に戻りアメリカの定期検査を受けたが体の異常が続出した。1985年に無人のメジャット島に移住する決断をした。
  福島でムリに郷里に戻された人の今後をみるような話だ
アメリカの核実験は、1946-58年の12年でビキニ環礁23回、エニウェトク環礁44回合計67回に及ぶ。

ベン・シャーン「水爆実験はやめよ」
「ベン・シャーンが見た福竜丸」というミニ・デッサン展をやっていた。ベン・シャーン(1898―1969)はリトアニア生まれ、7歳のとき両親とアメリカに移住したユダヤ人の社会派リアリズム画家で、サッコとバンゼッティ事件ドレフュス事件などをテーマに描いた。1957年雑誌ハーパース・マガジンの依頼で核物理学者ラルフ・ラップのルポルタージュ「The Voyage of the Lucky Dragon」の挿し絵として40点の素描を描いた。ラッキー・ドラゴンとは何かと思ったら、「第五福竜丸」のことだ。そういわれればよい名だが、よい運命には会わなかった。「夢の島のラッキー・ドラゴン」となると、まるで童話のようだが、ブラック・ジョークそのものだ。
その後60年に訪日し、1年がかりで彩色画11点から成る「ラッキー・ドラゴン・シリーズ」を完成させ、65年に「クボヤマとラッキー・ドラゴンの伝説」を出版した。
このミニ展示には「サンゴ礁の怪物」「死んだ彼」などのデッサン13点と60年代の「水爆実験はやめよ」のポスターなどが展示されていた。
 
2階に乗組員だった「第五福竜丸・大石又七さん語る」というインタビュー動画(8分)があった。大石さんは被爆したとき20歳だった。2019年つまり今年のインタビューなので80代半ばのはずだ。閃光が遠くに見え7-8分後に音がした。その後白い物が空から落ちてきた。チクチクしかゆい感じがした。舐めると味も熱もなかった。「死の灰」はサンゴが爆発で粉々になったものだ。だから白いわけだ。夕方になり頭が痛くなり気持悪くなった。帰港するまで2週間ほどかかり、その間に肌が黒ずみ、脱毛現象が起こった。帰港してからあれが水爆だったことを知らされ14か月入院することになった。
1976年に福竜丸の船体が展示されることを聞いたとき「本音は、船を置くのはやめてくれと言いたかった」と語った。ひどい目にあった被害者の正直な心境だと思う。戦争被害で「慰安婦」や「徴用工」の方が数十年たってやっと「真実を語る気になった」ということが思い出された。

その他、「3D映像で歩く第五福竜丸の船内」(2019年 9分)、チョウナや曲尺、墨壺を使って落とし針の作業をする「船大工の技」(2017年 10分)、新しい肋骨(リブ)を埋め込む修復プロセスの解説画像「第五福竜丸の内部」(2007年 11分)の動画もあった。

屋外には、第五福竜丸のエンジンが陳列されていた。このエンジンは福竜丸の廃船後、貨物船の動力になっていたが68年熊野灘で遭難沈没したものだ。99年に28年ぶりに引き揚げられ、エンジンの破片を原料に使用し鋳造してつくられ、ここに展示されたものだ。長さ5-6m、高さ2mほどある大きなものだ。エンジン引揚げにあたり、和歌山県民東京都民の運動が背景にあった。展示館の入口に三重、石川、滋賀、岐阜、長野などと並び和歌山の白浜、潮岬、串本などの小中学生の千羽鶴があった。それもこういうことなのかもしれない。
また、久保山愛吉記念碑や、本来は築地市場跡地にあるべきマグロ塚があった。記念碑には「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と書かれていた。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。

第五福竜丸展示館

住所:東京都江東区夢の島3-2
電話::03-3521-8494
開館日:火曜日~日曜日(月曜祝日のときは火曜休館 年末年始は休館)
開館時間:9:30~16:00
入館料:無料


☆4月11日「「歴史の記憶」を継承する震災復興記念館」の末尾に第五福竜丸展示館を少し紹介し「驚いたこと、初めて知ること、考えさせられたことがたくさんあったので、別の機会に改めて記事を書きたい」と書いた。その後2回見に行き、やっとその約束を果たすことができた。公設民営のこの展示館は、スタッフの志が目にみえるような施設だった。趣旨に賛同すると同時にいつまでも存続することを願う。
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