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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

こまばアゴラ劇場の終焉

2024年06月11日 | 観劇など

青年団こまばアゴラ劇場が閉館するというので、101回公演「思い出せない夢のいくつか」という芝居を観にいった。この作品は1994年に青年団プロデュース公演として、第七病棟緑魔子を客演に迎え話題になったそうだ。

観たのは5月14日、公演最終日の4日前だった。劇場は駅東口から300mほど、南側商店街の途中にある。わたしがこの劇場にはじめて来たのは、31回公演「冒険王」のはずなので、もう28年も前になる。以来、最初の10年くらいは吉祥寺シアターでなく、こまばアゴラでの公演だったと思う。平田オリザ氏の元妻・ひらたよーこさんが荷物番までされていたのもなつかし思い出だ(記憶違いかもしれないが、当時は屋外階段でなく、建物内を上がったような気がする)。一番最近来たのは23年4月28日の「志賀廣太郎 大塚洋お別れの会」だった。

芝居の登場人物は3人、上演時間70分の小さい芝居だ。
座席は全部で70席たらず、わたしの席は前から3列目、真ん中あたりだったので、演技がよくみえた。他の劇団でも同じだが、役者の演技は、指一本動かすだけでも大きな表現力があると、今回も感じた。
登場人物は、由子(歌手あるいは女優 兵藤公美)、貴和子(付け人 南風盛もえ)、安井(マネージャ 大竹直)の3人のみ、旅回りに出るところだ。開演7分前、貴和子が一人で現れ、荷物を網棚に上げ、ボックスシートの座席に座る。開演時間に安井が現れ、座る。
会場でシナリオを購入した(以下、ページ数はシナリオのページを示す)。冒頭セリフは、貴和子「ここ、ここ」、安井「うん」で始まる。貴和子の妹の結婚式で父が突然スピーチするといい、「ふつつかな娘」を「ふしだらな娘」と何度も言い間違え、花嫁があとで怒ったといった、なんでもないあまり芝居らしくない会話が続く。
しかし、これまで観た平田の芝居と比較すると、ややドラマらしいシナリオになっている。深夜の夜行列車、貴和子が由子のために売店にジュースを買いにいったはずなのに、なかなか戻らない。突然、客席後方のドアが開き、貴和子が登場、左手にリンゴを2つ持ち歌を歌いながら2人の膝にリンゴを置き、由子たちの4人掛けシートを一周し、ふたたび消えていく
その歌は「あかいめだまのさそり、ひろげた鷲のつばさ(略)オリオンは高くうたひ・・・」の宮沢賢治「星めぐりの歌」だった。
舞台下手のあんなところに、2階舞台から下へ降りる階段があったことを初めて知った。

シナリオの初めに引用・参考文献が3点掲載されていた。
宮澤賢治「銀河鉄道の夜」「青森挽歌」、内田百閒阿房(あほう)列車」だ。
由子と安井は、タバコを吸える通路のところで、別々に3人の「変な人」に会う。汚い袋をもち鳥を捕る猟師(p2)、「渡り鳥の群れが通るとぶつかって大変」という灯台守(p10)、植物の化石を取るため遺跡を掘りに行く「山師」のような地質学者(p17)である。
「銀河鉄道の夜」で20分停車の白鳥の停車場で、2人の少年は120万年前のくるみを拾い発掘作業中の地質学者に出会い、白鳥の停車場から鷲の停車場の間で、鶴や雁、さぎ、白鳥を捕まえる鳥捕りから菓子のような鳥の食べ物をもらい、渡り鳥が通りかかる灯台の看守に出会う。明らかにこの3人の人物を引用している。

貴和子が退場したあと、由子が奇妙な台詞をしゃべる。
こんな闇夜の野原の中を行くときは、客車の窓は、みんな水族館の窓になる(略)汽車は銀河系の輝くレンズ 大きな水素の林檎の中を走っている(p18)
 これは「青森挽歌」の冒頭ほぼそのままだ。
貴和子が由子に語るさそりといたちの話も「銀河鉄道」に出てくる。もともとは仏教説話にあったとのことだ。ただ安井が異論を唱え、ギリシャ神話のサソリの話を持ち出す(p20)
こまばアゴラ劇場サヨナラ公演のチラシより
芝居の最後、銀河鉄道の結末の話になる。貴和子が、子どもが川に落ちる話をすると、由子がそうではなく、汽車旅行の最後がどうなったかと聞き直す(p22)
カムパネルラが川に落ち、みんなで捜索するがみつからず、父が「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから」と打ち切ったことはわたしもはっきり覚えていた。だが、列車旅行の結末はまったく覚えていない。乗客はサザンクロス(南十字星)で全員下りるが、2人だけは乗り続ける。二人は「そらの孔(あな)」をみつけ、カムパネルラだけが母の姿をみつける。「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」とジョバンニが振り返ると、もうカムパネルラの姿は消えており驚き、立ち上がり大声で泣き出した。次の場面は丘の草の上でジョバンニが目覚めるシーンだ。
なお阿房列車のほうは、わたしが初めの「特別阿房列車」と「区間阿房列車」しか読んでいないせいかもしれないが、どこが引用されているのかは、わからなかった。こちらは主人公(百閒)と若い国鉄職員のヒマラヤ山系君のアルコールを入れつつ気楽な2人汽車旅行というところが同じなのはわかる。「思い出せない夢のいくつか」では、由子と貴和子のほかに安井もいるし、「(特別な)用事のない旅」ではなく、地方回りの仕事の旅という違いはあるにせよ、汽車の長旅というシチュエーションは共通している。
芝居は、由子と貴和子が星座盤を頭上に掲げ、くるくる回し、見上げる二人、で暗転・幕となる。
チラシには「3人の男女の複雑に絡み合う思いを、行く先が定かでない曲がりくねった線路の上を走る列車に乗せて描く」とある。貴和子はもともと家族で由子のファンで付き人になり、いまも由子を守り抜きたいと思っている。貴和子は、由子と安井は長い間いっしょにいるので「夫婦」のような関係ではないかと思っている。一方由子は、歌手になりたいと貴和子は付き人になったのに気の毒に思い「ちゃんとオーディション受けて、歌手の道を目指したほうがよい」のではと責任を感じ、26歳の貴和子の結婚のことまで心配し「幸せにしてあげないと、貴和子ちゃん」と安井に話かけるている(P19)
安井の心情はわたしにはわからない。ただ「映画、禿頭の」(安井)で、由子と安井は即座に「地獄の黙示録」を思い浮かべ(P6)ゴヤの巨人の絵の話をしていて、「あの髭はやした人だっけ?」(由子)、「それはダリだろう」(安井)、「よくわかりますねぇ、ヒゲだけで」(貴和子)、「そりゃ判るよ、だって」(安井)、「うん」(由子)、「ねぇ」(P22)安井と由子は阿吽の呼吸で理解しあえる関係、ということはいえる(長いつきあいとか、世代が同じということもあるとは思うが)。
「男女の複雑に絡み合う思い」とまではわたしにはわからなかったが、列車の4人掛けシートだけの会話芝居という点では、佳作だと思った。

劇場を出て、右に向かうとすぐ井の頭線の高架がある
70分の芝居が終わると、完全に夜だった。当分このあたりに来ることはないと思うとやはり少し寂しい。帰りはいつものように渋谷まで歩いた。松濤のあたりで山手通りを渡り、しばらく歩くと渋谷だ。渋谷の街は、東急本店もなくなり、逆に駅周辺にはヒカリエスクランブルスクエアなど高層ビルが建ちすっかり変わってしまった。駅の大改築はまだ途上なので、まだまだこの街は変身を続けそうだ

☆少し早く駒場にいき、久しぶりに東大教養学部を散策してみた。時計台のある1号館や左手の900番教室は昔のままだが、図書館、生協会館まで建て替わっていて、場所がよくわからなかった。さすがにグラウンド、野球場、ラグビー場といった運動場の場所や古い木は変わっていないようだ。時間が経てば、万物が変化するのは当然ではあるが・・・。

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