目黒区・駒場という芝居にあまり縁のなさそうな場所にあったこまばアゴラ劇場が、5月に閉館した。わたしは30年近く前から時おり青年団の芝居を観に通った。やむを得ない事情なのだろうから、仕方ないことなのだろうが、やはり思い出の場所がひとつ減るのは寂しいことである。 . . . 本文を読む
台は、幕末の横浜の遊郭。三味線が上手で酒が好きな芸者を大竹しのぶが演じた。堂々たる演技だった。また歌が上手なことは知っていたが、三味線弾き語りで今回口ずさんだのは邦楽だった。邦楽まで上手だとは驚いた。本当に芸達者な女優だ。 . . . 本文を読む
エイズが脅威だった20世紀末、ニューヨークを舞台にした芝居だ。オゾン・ホール、共和党政権、夫婦や恋人、宗教、人種などシビアなテーマが盛り込まれ密度が濃い芝居だった。新型コロナ、LGBT、地球温暖化が社会の大きなテーマになっている30年後の日本で観るのは、感慨深い。 . . . 本文を読む
豊岡演劇祭2022が開催された。残念ながら訪問時期が少し早かったが、豊岡周辺で会場となった町のうち3つに行った。平田オリザと青年団を核に、演劇による町おこしを進めてている様子をみた。 . . . 本文を読む
池袋の東京芸術劇場でNODA・MAPの「Q」再演をみた。Qはクイーンの「Q」、音楽は全面的に「オペラ座の夜」が使用されていた。わたしは昔の夢の遊眠社のことを思い出した。回りの観客も40年前の少年少女が多いように感じた。役者としては堂々と演技する松たか子に注目した。 . . . 本文を読む
「わたくしは正義を買いとることができる」「ヒューマニズムというものは億万長者の財布のために作られたもの」というグロテスクなテーマの芝居をみた。ただ、五野井真理枝の演出により、そこまでシリアスでなく、柔らかくむしろ明るいドラマとして演じられた。 . . . 本文を読む
高原のサナトリウムを舞台にした芝居なので、テーマは人の死である。静謐さとゆったりしたテンポは青年団のいつもどおりだ。初演は1992年なので30年もの歴史をもつ。95年当時の台本と比べると、いろんな種類の改訂がみられ、興味深い。 . . . 本文を読む
久々に井上ひさしの芝居を観た。「ある八重子物語」というタイトルだが、八重子本人は登場しない。新派ファンの人びとの話だ。20人もの多数の登場人物が、新派がらみのドラマを紡ぎあげた。民藝の芝居を観たのは初めてだ。
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メディアと政権をテーマにしたシリーズ「ザ・空気」完結編で、永井愛さんはメディア内部の自己規制の風景を描き、打開のためのキーワードとして編集権に着目した。編集権を経営者から現場の記者に取り戻すには、記者集団の拒否権、編集局長の選挙など、海外メディアの具体的な手段が参考になる。 . . . 本文を読む
1994年初演の平田オリザの「東京ノート」を観た。会話は、喜怒哀楽の「感情」の空気に包まれており、その基礎として社会関係(人間関係)がある。それを「演劇」で見せてくれる芝居だった。平田の「静かな会話劇」の本質に触れた気がした。 . . . 本文を読む
二兎社の「私たちは何も知らない」(永井愛作・演出)を観た。明治の女性たちの足かけ5年の雑誌づくりの話だった。同時に編集チームの人びとが恋愛、出産、育児、家事で直面する女性の生き方を探る芝居となっていた。 . . . 本文を読む
はじめて少年王者舘の芝居をみた。イメージの連続や言葉遊びが多い点で、40年前の夢の遊眠社時代の野田秀樹を思い出した。決定的に違うのは、野田のシナリオにはバックに「意味」の骨格があることだ。ただダンスや踊りは遊眠社よりはるかに洗練され、きれいだった。 . . . 本文を読む
ヤルタ会談を日常語の会話で描いた、平田オリザによる権力者3人芝居をみた。ヤルタ会談というと前世紀半ば、70年以上前の歴史的会談だが、「古い」つながりで、帰りに渋谷の創業70年前後のおでん屋に立ち寄った。 . . . 本文を読む
平田オリザの「ソウル市民」4部作(5部作?)の2本目をみた。3・1独立運動開始の日の「日本人の有り様を、徹底的にコミカルに描き出すことで、植民地支配者の滑稽な孤独を浮き彫りに」した作品だ。いまに続く朝鮮人への差別感をみた。 . . . 本文を読む