III.
それは奇妙な信じがたい幻視を見る思いだった。パスカルは説明のつかない恐怖に捕らわれ、振り払おうとしたがうまく行かなかった。そのとき食堂の床を定まらぬ足取りでドスンドスンと歩く音が聞こえ、彼はハッと我に返った。
「あれは彼だ、男爵だ」と彼は思った。「こっちへ来る。見つかったら俺は終わりだ。もう俺のことを助けてやろうなんて思わないだろう。こんなところを聞かれたら、その聞いた相手を許す男なんていない……」
逃げればいい、姿を隠せば……。モーメジャンという名前が書いてあるカードが残るからといって彼がそこにいた証拠にはなるまい。機会を改めて別の日に、この屋敷以外で彼に会えばいい。そうすれば召使に見とがめられることもない。こういった考えが稲妻のように彼の脳裏を駆け巡り、彼はすでに立ち去ろうと動いていた。そのとき低く唸るような叫び声が聞こえ、パスカルはその場に釘付けになった。
トリゴー男爵が敷居のところに立っていた。でっぷりした体格の人がそうなるように、驚いた彼は無様な様子を呈していた。顔は歪み、唇は真っ白に、目は脳卒中を起こしたかのように充血していた。
「な、なんでこんなところに居る?」彼は喉を締め付けられたような声で尋ねた。
「お宅の使用人の方に案内されて参りました」
「あんた、一体誰なんだ?」
「え? 私のことがお分かりになりませんか?」
パスカルは動転のあまり、男爵とは今までに二度しか会ったことがないのを忘れていた。自分の顎鬚を剃ってしまったことや、殆どぼろぼろの服を着ていること、つまり自分の正体を見破られないようにするためあらゆることをしたのを忘れていた。
「モーメジャンなどという名前の人間は知らぬ」と男爵は言った。
「ああ、その名前は私のものではないのです……。お忘れですか、マダム・ダルジュレ邸で卑劣な罠に嵌った無実の男のことを。ド・コラルト子爵によって仕掛けられた罠に?」
男爵は額を叩いた。9.2