犯罪が行われるのを避けるため、私は前代未聞の予防措置を施こさねばならなかった。私が突然死を遂げたら、家族には一スーも行かないようにしたのだ。それ以来というもの、彼らは私が死なないように気を付けるようになった……」
彼は急に錯乱したような様子で立ち上がると、パスカルの腕を掴み、骨も砕けるほどの力で握りしめた。
「しかし、それで終わりではないのです!」彼は低くしゃがれた声で続けた。「この女、私の妻、あなたはすべてお聞きになりましたね。彼女のおぞましさ、悪辣さがどれほどのものか、お分かりになったと思います……それなのに……私は彼女を愛しておる」
パスカルは一歩退き、思わず叫び声が出た。
「そ、そうなのですか!」
「そんな馬鹿なことが、とお思いでしょう?……全くのところ理解不能だ……人知を超える不可解さ……しかしそうなのです。私が百万長者になろうと思ったのは、彼女の贅沢好みを満足させるためでした。それにこの馬鹿げた称号を買ったのは彼女の虚栄心を満たすためでした。彼女が何をしようと、結婚したばかりの頃の清らかで美しい妻の姿を彼女の中に見てしまうのです。意気地のない滑稽で惨めな話です……が、それは私の意志や理性よりも強力で、私は妻を気も狂うほど愛しておる。どうしても心から追い出すことが出来ぬのです……」
そう言いざま彼は再び長椅子の上に倒れ込み、すすり泣いた。これがあのマダム・ダルジュレ邸でパスカルが見たトリゴー男爵なのか……あの通俗的で陽気な男……見るからに金持ちそうで、落ち着き払い、大きな声で高圧的な話し方をし、皮肉の利いた冗談を飛ばし、賭博場を渡り歩き、すべての娼婦たちと懇ろな……あの男と同じ男なのか!
だがしかし、間違いなくトリゴー男爵その人であった。ただ世間が知っている彼はただ役を演じている役者に過ぎず、ここにいるのは真のトリゴー男爵だった。五、六分も経った頃、ようやく彼は自制心を取り戻し、比較的穏やかな口調で言った。
「どうしようもないことにこれ以上時間を費やすのはやめて、さぁ、あなたの話をしましょう、フェライユールさん。今日起こし下さったのはどういう御用件で、ですかな?」
「先日あなたがして下さったお約束に関してです。私に浴びせられた誹謗中傷を打ち破り、名誉を回復するのを助けて頂けるのではないかという希望を持って参りました」
「おお、そうですか! もちろん、助けますとも」と男爵は叫んだ。「私の力の及ぶ限り協力させて貰います」
しかしここで彼はドアを開け放した状態で話をする危険性に思い至り、立ち上がって喫煙室のドアを閉め、パスカルのところへ戻ってきた。
「話してください。あなたのお役に立つにはどうすればよいですか?」9.6