エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-III-11

2022-09-21 10:30:01 | 地獄の生活

確かなことは、私は虜になってしまったということです。長らく生きて疲弊し、しなびて色褪せ、何事にも無感動になり、もう終わりの人間だと自分では思っていたので、傷つくことなどもうあり得ないと高をくくっていたのですよ。ええそうですとも! ところがある朝目覚めたら、二十歳の若者の心になっていたのです。彼女をちらりと見かけるだけで心臓は早鐘のように打ち、顔には血が上って真っ赤になる始末。もちろん、自分にブレーキをかけようとしましたよ。自分が恥ずかしくなって……。でもどうにも制御が効かないのです。自分の愚かさをいくら自分に言い聞かせても、心はますます依怙地になるばかり……。しかし、私の愚かさの所為だけではなかったようで。というのは、あれほどの純潔な美しさ、高貴さ、情熱、正直さ、そして溌溂たる知性を持った女性と出逢うことは二度とはないでしょうから。私はパリを離れようと思っています。妻と私はまずイタリアを旅行し、それからヴァロルセイに戻ってひと番いのキジバトのように暮らすつもりです。そこでの穏やかな生活を夢見ているようなわけでして。私のような老いぼれには身に過ぎた幸福です。つくづく私は幸運な星の下に生まれたものですよ!」

 彼がこれほど自分の語りに夢中になっていなかったら、ドアの向こう側に押し殺した罵り声が聞こえた筈であった。侯爵の言う幸運な星を覆い隠すほどの怒りがそこでは溜まっていた。彼が役割を演じることにこれほど熱中していなかったら、話し相手の顔に浮かんだ奇妙な表情を見逃さなかったであろう。それは彼にとって危険を示していたのに。

 つまるところトリゴー男爵は観察眼を持っていた。侯爵の情熱的な感情の吐露に真実の響きを感じていなかったのだ。

 「貴殿の言われることがよく分かりましたよ、侯爵」と彼は言った。「貴殿は高名な大貴族の後裔の娘さんと出逢われたのですな。今は零落している家系の……」

 「貴殿は分かっておられない……私の未来の妻はマルグリット以外のいかなる名前も持っていないのですよ」

 「まるで小説に出てくるような話というわけですか!」

 「そのとおり。まさに小説に出てくるような。貴殿もご存じでしょう、先ごろ亡くなったド・シャルース伯爵を?」

 「いえ、面識はありませんでしたが、お噂はよく耳にしていましたよ」

 「そうですか!私が結婚しようとしているのは、その方の私生児なのです」9.21

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