「どんなことですか、フェライユールさん」
「では申し上げます。私はド・ヴァロルセイ侯爵とは面識がありません。それで……ドアをすっかり開け放つのでなく、細目に開けておいていただけませんか。そうすれば声を聞くだけでなく、顔もはっきりと見ることが出来ますので」
「承知しました!」と男爵は答えた。
彼は食堂に通じるドアを開け、一歩中に入ると愛想よく手を差し出しながら上機嫌な声で言った。
「どうもお待たせして失礼いたしました。貴公からの手紙を今朝受け取ったので、お待ちしていたのじゃが、ちょっとした事件がありましてな……貴公はお変わりありませんかな?」
男爵が入ってきたのを見て、ド・ヴァロルセイ侯爵は急いで彼の方へ進み出てきた。新しい企てを思いついて希望が出てきたのか、超人的な力で自分をコントロールしているのか、かつてないほど彼は落ち着き払っていた。今ほど尊大な無頓着さ、自己満足、他人への軽侮がその顔に遺憾なく表現されていたことはない。それぞ貴族たる者の証というわけだ。それに今日はいつもより更に念入りに、この上なく洗練された身だしなみを整えていた。今日はまた彼の下男が腕によりをかけて頭髪を整えたことも見て取れた。つまり彼にまだ髪がたっぷりあるように見せていた。彼が内心なにか思うところがあるのを匂わせるものがあるとすれば、それは彼が昔ラ・マルシュ(フランス中部の地方)で骨折した右足に表れたぎこちなさであった。
「それをお聞きせねばならぬのはこちらの方ですよ」と彼は男爵に言った。「何かただならぬ様子ではないですか。貴公のネクタイが半分ほどけているし……」
それから床の上に粉々に砕けた陶器の欠片を指さしながら 「これを見て、なにか事件があったのでは、と思っておりましたよ」
「朝食を取っているとき、男爵夫人が気分を悪くしまして、それで私もちょっと慌てたようなわけです……。が、それは何でもなかったようで、家内はもう元気になりました。明日はヴァンセンヌの競馬場に行って貴公の馬に声援を送りますよ。ご安心ください。貴公の馬に賭けることでしょう、何百ルイになるか分かりませんが」
侯爵は心から遺憾であるという身振りをした。
「ああ、これはこれは、何と申したら良いものか!」と彼は言った。「男爵夫人にはご迷惑をおかけします! ヴァンセンヌには出走しません。棄権することはもう言ってあります。もうレースには出られません……」9.10