エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XIX-13

2022-04-09 09:11:25 | 地獄の生活

それか、かつて息子を悪の道に引き摺りこんだ悪い連中の一人にばったり遭ったか……。それとも彼の父親であるポリト・シュパンにたまたま出会ったのかもしれない。この男を彼女は今でも愛していた。何といっても彼女の夫だったのだから……。とは言え、どんな悪事にでも手を染める男だということも彼女には分かっていたのだが。そしてこのような不運な巡り合わせ以外に、事故という可能性もあった。命に関わるような事故……しかしその場合、彼女の怖れは一番小さかった。下層階級の彼女の気高い心の中では、圧倒的な母性本能よりも信義を重んじる心の方が上位を占めており、重罪院の被告席にいる息子を見るより、死体安置室の板の上に横たわっている姿を見る方がましだったのだ。

 彼女はもう涙も尽き果てていたが、そのとき廊下の端から聞き慣れたシュパンの足音が聞こえてきた。彼女はドアに駆けより、扉を開けると、目では見えなかったがすぐ近くに息子の匂いを感じ取った。

 「一晩中どこにいたんだい?」と彼女は尋ねた。「一体どこに行ったの、何があったんだい?」

 返事の代わりにシュパンは母親の首ったまに飛びついた。これは心の衝動に従ったものであり、また経験上これに勝る釈明はないと分かっていたからでもあった。それでも彼は言い訳をせずにはいられなかった。真実は明かさないように慎重に言葉を選びつつ、自分の良心よりも厳しい母親の叱責を恐れながらも最後まで話した。

 「お前の言うことを信じるよ」と尊敬すべき婦人は重々しく言った。「お前はあたしを騙すような子じゃない。そうだろ?」

 酔っ払いに連れ添った経験を持つこの薄幸な婦人は付け加えた。「お前が私に抱きついたとき、お前がお酒を飲んでないことが分かって安心したよ……」

 シュパンは一言も返さなかった。このように信頼されたことは非常に彼を気詰まりにさせた。

 「縛り首になってもいい」と彼は思っていた。「もし俺がおっ母さんに言えないようなことをしたら。この真正直なおっ母さんに!」

 しかしほろりとした気分に浸っているひまはなかった。俺はもう引き返せないほどに、この件に深く関っている、と彼は思っていた。こうなったら出来るだけ早いうちに自分の活動報告をしておくことだ。ド・コラルト子爵に対する憎しみを存分に掻き立てるのはその後でよい……。

 空腹で衰弱していたシュパンは急いで食べ物を少し腹に入れた。その後、夕食までには必ず帰るからと約束して再び出て行った。4.9

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1-XIX-12

2022-04-07 14:58:45 | 地獄の生活

確かなことは、彼らがシュパンを酷く苛立たせていたことである。シュパンは彼らのあとをつけていたが、車道を挟んだ向こう側からであり、かなり距離をおいてであった。自分の姿を彼らに見せてしまったので、自分と見定められることを恐れていたからだ。

 「性根の腐った弱虫どもめ」と彼は口の中で呟いた。「あいつら六人の身体をカラカラになるまで絞り上げても一ショピーヌ(昔の液量単位で、0.5リットル)の男の血にもなるまい! あいつらが酔っぱらってさえいたら!……いや、そいつは駄目だ!…ああ、俺がムカついてるってこと、あいつらに思い知らせてやりたい!」

 しかし、さほど長く待つこともなかった。ドルーオ通りで二人が集団を離れ、更にもう二人がペルティエ通りに消えて行った。二人残されたウィルキーとコラルトはブールヴァールを歩いて行った。彼らは腕を組み、何か活発に話をしながらエルダー通りまで来るとついに力強い握手を交わした後別れた。

 彼らは別れ際に何を言い、どんな約束を交わしたのだろう? それを知るためなら、シュパンは喜んで百スー自腹を切ったことだろう。彼はまた分身の術を教えてくれるものなら更に金を積んだであろう。ラ・マドレーヌの方角に向かったド・コラルト子爵の後をつけつつ、もう片方の男からも目を離さないことが可能になるならば。しかし今は魔術の時代ではない。シュパンはため息を吐き、ウィルキーの後をつけた。まもなく彼はエルダー通り四十八番地の家に入って行くのが見えた。門のところで真鍮の呼び鈴を磨くのに余念のない女管理人が、彼に挨拶をした。間違いはなかった。ウィルキーは確かにここに住んでいた。

 「やれやれ!」とシュパンは呻り声を上げた。「ちゃんと馬車も停まっている。ここが奴の住処だってことは分かってたさ! ゆうべマダム・リア・ダルジュレがあそこの窓を眺めている様子から、そうだろうと思ってたんだ……可哀想な人だ、息子はろくでなしの青年貴族なんだからな!」

 この同情の念がそのまま彼の身にも降り掛かってきた。

 「人のこと言ってる場合かよ!」と彼は叫び、自分の頭にげんこつを喰らわした。「おいらの可哀想なおっ母ぁのこと忘れてた!」

 任務はすべて終了し、これ以上探ることもなかったので、彼は全速力で駆け出し、フォーブール・サンドニへの最短の道を取った。

 「おっ母さん、ごめんよ」と彼は両脚を懸命に動かしながら心の中で言っていた。「おっ母さんは随分辛い夜を過ごしたんだろうなぁ……とんでもない不良息子だ! もう身体中の涙も出し尽くしちまっただろうに」

 それは本当だった。不幸な母親は不安で死にそうな一夜を過ごしたのだった。住人の帰宅を知らせる門を叩く音が聞こえる度に飛び上り、一時間一時間を指折り数えながら……。そして時計の針が進むに従って彼女の心臓は締め付けられて行き、心に浮かぶ情景は不吉なものになっていった。息子がこんな不安のさ中に彼女を追いやるとは、と彼女は考えていた、何か不測の事態があったに違いない。

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1-XIX-11

2022-04-06 14:45:23 | 地獄の生活

千鳥足の者もいれば、飲み過ぎて理性を失い、頭を低く垂れたまま立ち去ったり、訳の分からない言葉を不機嫌にぶつぶつ言ったり、同様に泥酔しているものの、もっと威勢の良い者たちは歌いながら、あるいは大声で道路掃除人たちに話しかけたりしていた。あまり酔っていない者たちは、日が昇っているのに恥ずかしさを覚えるのか、全速力で道の端をそそくさと去っていった。自力で立っていられない客を馬車まで抱えていく数人のウェイターたちの姿もあった。やがて店の前には夜の馬車が五、六台残っているだけとなった。御者たちは声を涸らして呼びかけ、元の持ち場に帰る前に最後の客を拾おうと奮闘していた。

「四人乗りですよ!」彼らは叫んでいた。「さぁさぁお客さん、四人乗り!」

 シュパンの前に立ちはだかって彼を通すまいとした、あの黒い制服を着た男、そしてウィルキーがフィリップと呼んだ男、が出て来たところを見れば、もう店ではすべての客が支払いを済ませ、殆ど誰も残っていないに違いなかった。フィリップはパルトー(前ボタンの短い外套)を着込んではいたが、寒そうな陰気な顔で大股に歩いて立ち去った。昼間寝て、夜は一晩中立ちっぱなしで他人の歓楽のための殉教者となり、酒瓶の底にはどれほどの愚かな行為があり、『お楽しみ』という言葉の背後にはどれほどの欠伸が隠されているかを知っている男の顔だった。

 「あ、あの男だ」とシュパンは不安な気持ちになった。ウィルキーと彼の連れはもう帰ってしまったのか?

 しかし、彼らはちゃんと現れた。しばらく歩道で輪になってなにか話していた。彼らは朝日を浴びて眩しそうに充血した目をしばたたかせていた。唇はだらしなく垂れ下がり、冷たい空気が生気のない頬に青っぽい斑点をつけていた。黄色い髪の女たちの化粧は崩れ、メークがぐちゃぐちゃになり、彼女たちの真の姿、醜悪な、を見せていた。彼女たちは残っていた唯一の馬車に乗り込んだが、それは一番うらぶれた乗り物で、御者は可哀想な馬を動かすのにかなり苦労をしていた。一方、男たちは徒歩で遠ざかっていった。

 「さぁて」とシュパンは自分に言った。「出発だ」

このような朝の時間に、キャバレーで一夜を過ごしたことが丸分かりのだらしない服装でブールヴァールを歩いて帰らねばならないのを恥ずかしく思う男たちは多いであろう。しかしウィルキーと彼の仲間達---明らかに不機嫌そうなド・コラルト子爵を除いて---はそんな自分たちが誇らしげで得意満面だった。彼らが通行人たちから受ける視線でそのことが明らかに読み取れた。彼らは自分たちが『お洒落』で、そのような印象を人に与え世間にアッといわせていると思っていた。それ以上に何を望むことがあろうか?4.6

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1-xIX-10

2022-04-04 08:38:29 | 地獄の生活

しかし実際は、彼がそのことを知っているという事実が、決定的に事を左右するであろう。自分の持っている秘密を武器に使えば、時宜を見て介入することにより、フォルチュナ氏に勝利をもたらし、ド・コラルト氏を降伏させることも出来るのだ。そうとも、もしコラルトが、彼が誰であるかに気づかなかったら---そのことには確信があった---、あるいはそもそも彼の存在自体を知らなかったら、もっと好都合だ。彼は、怒りに任せて行動してしまったことを後悔した。彼の敵に自分が彼の秘密を知っていることをばらしてしまったのだ。が、それは大したことではなかろう。

ということであれば、自分を縛るものは何もない。フォルチュナ氏に手を貸すことで、一石二鳥の効果が得られるというものだ。彼はコラルトに復讐を果たし、自分の雇い主であるフォルチュナ氏に利益をもたらすことになろう。その利益から彼も何がしかを得ることになるのだ。

いや、それは駄目だ! この件から何らかの利益を得ると考えただけで彼は言いようのない嫌悪感を覚えた。生まれつき損得勘定に敏い彼であったが、崇高な信義が勝利したのだ。コラルトが絡んでいるからには、何らかの裏切り行為か卑劣な企みが存在するであろうから、そんな金に触れれば自分の手が汚れる、と思ったのである。

「儲け度外視でボスの手助けをしよう」と彼は決心した。「復讐が成ったら、それが報酬だ」

このときシュパンにはそれ以上の計画は思いつかなかったのでそう決心したのである。自分の思い通りに事を運ぶ力があればもっと違うように行動したであろう。ウィルキー氏にはふさわしくないと思えるこの相続財産を単に取り上げてしまおうと考えることも出来た筈であった……。

「あいつがどんな風に金を使うか想像がつくってもんだ……」と彼は思っていた。「俺の親父が手にした金は全部あっという間に遣い果たしちまったように、あいつもそうするんだろうな……悪党に限って金が入ってくるんだから、たくもう!」

頭の中でいろいろ考えてはいても、シュパンは向かいのレストラン・ブレバンの入口を注意深く観察することには抜かりがなかった。ウィルキー氏を見逃さないようにすることが今の最重要案件だったので。

すっかり夜が明け、レストランからは客の姿が消えた。パリが目覚め、活動を始めると、彼ら愛すべき遊び人たちは歓楽の夜を過ごした後、自宅へ戻り、ベッドに入り眠るのである……。ぞろぞろと出てくる客たちの姿がシュパンの監視を困難にした。

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1-XIX-9

2022-04-02 10:42:52 | 地獄の生活

「ああ、あいつが憎い。あの男が」と彼は食いしばった歯の隙間から激しい怒りを漏らした。

フォルチュナ氏には打ち明けたことがあるのだが、彼はかつて一度だけ卑劣で言語道断な行為に及んだことがあった。それはすんでのところで一人の人間の命を奪うところだったのだが、その計画がもし成功していればある若い男を益することになる筈であった。その若い男とは現在ド・コラルトという響きの良い名前の下に忌まわしい本性を隠している男だった。

そんなことがあったというのに、何故シュパンは最初に顔を見た瞬間に彼と分からなかったのだろうか? それはシュパンが何も知らずに、言わばこの偽の子爵の側の手先として働いていたからであった。彼の早熟で悪知恵の働く性質を利用しようとした悪党たちが彼を唆したのだ。シュパンは偽子爵を二、三回垣間見ただけで、言葉を交わしたことは一度もなかった。後になって、もう遅すぎるときになって初めて、彼は自分が陰謀に加担させられていたことを知ったのだった。そしてその後心から悔い改め、真人間になった今、彼は自分の犯した罪のためコラルトを忌み嫌っていたのだ。

しかもそれだけではない。あの個室でコラルトは恐ろしく、容赦ない姿で彼の前に立ちはだかった。それは自責の念を彼に呼び覚ました……。心の奥深くから脅しつける声が聞こえた。

『今度は何をしようっていうんだ? お前はまたある男のためにスパイをしている。その男を信用もしていないし、その本当の目的も知らされてはいないのに……。あのときだって同じように始まったのではなかったか……その結果どんなことになったか、忘れたのか?  血で手を汚すのは一度でたくさんではないか! 悪党の手先になっておきながら無実を主張するなんて愚の骨頂だ!』

この声がシュパンをして百フラン札に火をつけさせたのだった。そして同じ声が今ベンチに座るシュパンを苦しめていた。彼は自分の置かれている状況を見極めようとした。

つまるところ、自分はどういう立場にいるのか? シュパンは全くの幸運から、マダム・ダルジュレが世間から隠してきた問題の息子を見つけた。しかしこの息子は、予想に反して近々ある遺産が彼の手に入ることを知っていた……。

フォルチュナ氏がしようとしていることを、彼と同じくらい事情に通じているコラルト氏はもう既にしているのではないか。しかるが故に、この勝負は負けであり、意地を張って頑張るだけ無駄ということだ。それで一巻の終わりになる筈であった。もし彼がド・コラルトの口にするのも憚られるような過去を知らなかったならば。4.2

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