アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

どこにもない国=今ここ

2023-09-16 10:01:14 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎OSHOバグワンの逍遥訣解説-4

(2022-07-10)

 

さて第四ステップまで到達したらようやく奥の奥の奥のそのまた奥が明かされる。

 

『そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―――

どこにもない国こそ、真のわが家である。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP435から引用)』

 

OSHOバグワンの解説は、

『さあ、ここではじめてあなたは自分が存在していないことに気づく。だが、自分が存在しないといっても、それはたんなる空虚な状態を意味するものではない。あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、全体があなたのなかに宿るようになる。あなたはもはや孤島ではない。今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。 それゆえに・・・・

 

どこにもない国こそ、真のわが家である。

 

もう自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言うことはできない-――それこそが真のわが家だ。 この、“どこにもない”というのは、実にすばらしい言葉だ。』

(上掲書P435-436から引用)

 

自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるのが第四ステップ。彼は、神はどこにでも存在していて、その上で自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるという、想像しづらい“現実”を突き付ける。ところがこれぞ『真のわが家(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

そこでさらに『今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。今ここで神を見いだすことができなければ、どこへ行っても神を見つけることはできない。この瞬間、まさにこの瞬間に・・・・・・・

 

三つのステップが実現され、第四のものが達成されたら、これが起こる。これは秘法のなかの秘法だ。―――神はどこかに腰かけている人物ではない。神が人物として知られることはけっしてないし、人物として知られたことも一度もない。

 

神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだしている。クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢をつむぎだし、夢を投げかけている。それはあなたの夢を見る心の働きだ。

 

真理は人物ではないし、真理はどこかに、外にあるものではない。それは客体として見つかるものではなく、みずからの目撃しつつある主体だ。そしてそれは、あなたの男と女が消えてひとつになってはじめて実現する。』

(上掲書P437-438から引用)

 

時間もなく、場所もなく、すべてが神であるどこにもない場所、それが男女の別を超え、えり好みをしないという第四ステップを超えると起きてくる。

 

さらに彼は、いわゆる人格神を真っ向から否定する。キリストの姿を見るのも空想であって、“神”ではないとする。

いわゆる高級神霊は、個別神格を持つが、それは“神”“主神”ではないと、見事に否定してきている。神様は白髭のおじさんではない。この部分は既成大宗教では、物議をかもすところかもしれないが、真相は彼が説明しているとおりなのだろう。

 

◎冥想の効用のない部分、ある部分-21

◎冥想の効用のない部分-20

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-19

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芭蕉の師仏頂和尚のこと

2023-09-16 09:50:16 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎仏頂の純粋な道心をしのぶ

(2012-12-18)

 

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。そういうところは大学受験にはまず出ないだろうが。

 

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が、仏頂和尚が庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に

「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡を訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

 

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

 

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。

 

山形立石寺の

 閑さや岩にしみ入蝉の声 

が聞こえそうな句である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジの好きな芭蕉三句

2023-09-16 07:01:27 | 達磨の片方の草履

◎ほろほろと 山吹散るか 滝の音

 

ダンテス・ダイジは、芭蕉のことを評価していた。彼が好きだった三句。(参照:君がどうかい?/渡辺郁夫編p129)

 

ふと見れば なずな花咲く 垣根かな

※これは、続虚栗(ぞくみなしくり)という句集にある「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」である。普段は気にも留めぬなずなの白い花だが、波もない水面の如く落ち着いた心には、よく映って来る。

 

旅人と わが名呼ばれん 初時雨

※これは、笈の小文にある。前書に「神無月の 初(はじめ)、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」とある。奥の細道序文に「月日は百代の過客にして」とあるように、寄る辺なき旅人気分が芭蕉にはいつもある。それは、芭蕉が旅から旅の人生だからというわけでもなく、覚者の孤独の影が差している。ダンテス・ダイジは、神人合一したことで、何もかも見知らぬ世界に生きることになり、帰る家を失った。郷里がなくなれば、彼は旅人でいるしかない。そのことを道教の大立者呂洞賓は、無何有郷と呼ぶ。

その心情を覚者の社会性喪失から来るところの寂寞とだけ見るのでは浅い。六神通と言われる超能力を駆使できてもそこは残るのだろう。悟ると世界は逆転するが、世界の逆転とはそのような旅人となることなのだろう。

 

ほろほろと 山吹散るや 滝の音

※これも、笈の小文にあるのだが、「ほろほろと 山吹散るか 滝の音」で、一文字違っている。吉野川のごうごうたる滝の音を遠くに聞きつつ、桜にも劣らぬほどに咲き誇った山吹がほろほろと散っている。ダンテス・ダイジは、「このほろほろがよい。」と嘆じている。

 

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする