◎純粋冥想のみが人類の全面的平和と全面的幸福を明示できる
『純粋冥想には、初めも終りもない。
純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。
そして純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できるのである。
あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。
生とは何か?
死とは何か?
私とは何か?
存在とは何か?
真の幸福とは何か?
これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、人類史上、ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。
この余りにも、あたりまえな前提を抜きにして、人類は、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求して、文明と称する何かを作り出している。
そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。
余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望追求の複雑化は、自滅に至って終るだけだというのに。
こころみに問う。
欲望とは何か?
人間とは何か?
これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅶ~ⅷから引用)
純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。ところが、純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できる、とくれば、全面的平和と全面的幸福は、人間の側に属していないであろう純粋冥想の彼岸に望むものなのだろうと思う。
ダンテス・ダイジの文明評価は、平たく言えば何人覚者を出したかということ。文明の成果とは覚者であって、神の香気。この近代西欧文明は、神を隠してしまおうという傾向が恐ろしく強く、ともすれば本物の覚者が出れば、イエスのように迫害して殺すし、OSHOバグワンのように域外に放逐し排斥するものである。
今や人間を至上とする民主主義と新旧の共産主義の皮を仮りた独裁国家が世界で角逐しているが、どちらにしても神の居場所はない世界となり果て、真の覚者はいたとしても息をひそめている。まるで、神への信仰を持つことが社会にとって危険であるというような言論思想圧殺の時代が、まもなく来ることをありありと予感しているが如くだ。
こんな時代に覚者が何人出ようが、神のかぐわしい香気が、人々の行住坐臥や街並みや野や山や海にどの程度残っているかどうかを気にする人はとても少ない。
このような姿をダンテス・ダイジは、『奇妙な文明と称する何ものか』と謂う。
まず、純粋冥想により、
生とは何か?
死とは何か?
私とは何か?
存在とは何か?
真の幸福とは何か?
を解明し、その悟りを持って生きる。
これらが『それぞれに分割できぬ全体』であるとは、今ここのことだが、それは人間性には属していない。
悟りのないままに、人類が、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求しても、その果てしない強欲は、核兵器による人類滅亡を人質に脅迫をお互いに繰り返すこの80年間を経て、その緊迫感は近年露骨で、さらに全面核戦争の危険度が高まりつつある。
大方の人類には、全く信じられないことかもしれないが、世界平和と世界人類の幸福を実現する手段は、軍事的優勢でも、経済的圧倒でも、巧緻な外交でも、インテリジェンスの勝利でもなく、各人が純粋冥想に取り組むことなのだ。
仮に今ここに世界平和が実現したとしても、万人が悟っていない以上は、早晩次の戦争が繰り返されるだけである。
たしかに、これまでの人類の歴史上大悟覚醒した人は稀である。覚醒する確率は低いけれど、それでも今ウクライナで戦争が行われている中、人類滅亡の戦慄に慄きながらも平和と幸福を実現する手段は、純粋冥想だけなのである。各人が純粋冥想により、悟りという意識の限界状況を通過していくことだけなのである。
悟りには、見神と神人合一の2段階あるが、神人合一により世界と合一し、世界に何の問題もないことを確認し、真の幸福と世界平和を生きるのだ。また真の幸福と世界平和は、上部から下部へと移りながら実現するものであり、霊的な言い方ならば、時間のない世界に実現し、神界に実現し、霊界に実現し、最後に現界に実現する。