◎人知れぬ心の苦しみまで感じとる
以下はいずれも松尾芭蕉49歳の句。
人も見ぬ春や鏡のうらの梅
(鏡の裏に彫っている梅など誰も知らないが、世に隠れ住む私にも春はやってきている。)
孤独な私の思いにも斟酌などせず季節も時代も進んで行く。
鶯や餅に糞する縁のさき
(春の光を受けて縁側にかき餅を広げて干してあるが、そこに声の美しい鶯が無粋にも糞をして去って行った。)
美しい風景にもリアリズムの面がある。禅とクンダリーニ・ヨーガのコントラスト。
両の手に桃とさくらや草の餅
(庭にある桃の花と桜の花を両手に携えて、草餅を食べるという、幸福この上ない様子。)
禅家は、桃の花と桜の花も草餅も切って捨ててみせるが、クンダリーニ・ヨーギは、いずれも愛でて味わう。
鎌倉を生きて出でけむ初鰹
(新鮮な初鰹が魚屋の店頭にやってきたが、鎌倉を出る頃には、まだ生きていたのだろう。普通の人ならば思いも及ばぬ、初鰹が経てきた人知れぬ心の苦しみまで感じとるのがクンダリーニ・ヨーガ的。人知れぬ心の苦しみのことを「心の骨折」と称する。
芭蕉は禅で大悟したにもかかわらず、かえって繊細な感覚を表面に出して、日常の行住坐臥の中に、魚の運命の転変までも思いやるデリカシーを見せている。
禅は水平の悟り、クンダリーニ・ヨーガ系は垂直の悟り。二つを手に入れれば人生としては完成である。これぞトースとダンテスの合体の相ではある。