◎成熟し切った自我とは何であるか
『真正の覚者についての、いかなる規定も説明も無意味である。
彼には、いかなる特定の立場も質もない。彼は、究極的覚醒そのものであるが、覚醒の何たるかを一度も垣間見たことのないあなたにとって、覚醒を見わける方法も手段も、その眼力もない。 したがって、苦悩するあなたにとって、真正の覚者は、決してわからないのである。
真正の覚者なしでは、純粋冥想はあり得ない。あなたは、覚者の行為しているその形式を実践することはできる。だが、あなたの覚者とその行為形式とは、まったくの欺瞞である。それは、最悪の狂信的イデオロギーになる可能性を持っているという点で、単なる社会的欺瞞よりも、たちが悪い。
ここで、あなたは、成熟し切った自我とは何であるかを理解しなければならない。 成熟し切った自我とは、いつでも死ぬ準備のできている自我である。成熟とは、世界とか社会とかに順応して、いわゆる円満な人格になった自我ではない。順応とか適応とかは、一つの妥協であり自己欺瞞にすぎない。
成熟し切った自我は、単に生きのびるために、決して自我の渇望や情熱を妥協させ摩滅させはしない。成熟し切った自我は、私達一切の苦悩と混乱との諸問題 からの全面的開放のために、額面通り命がけである。
そして、自我は、自我という欲望が、問題を作り出していて、それが、解決不可能であることを全面的に知っている。つまり成熟し切った自我は、いつでも死ぬ準備ができている。
この時、あなたは、真正の覚者と出会うに必要な直観を得る可能性を持つ。 真実の覚者が何であるかわかるに必要な空白を持つ可能性がある。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅴ~ⅶから引用)
絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を実現するには、真正の覚者に出会わねばならない。
しかしながら、この部分では、あなた自身が悟っていなければ、真正の覚者に出会っていたとしても、真正の覚者を見分けることができないとしている。
ところが例外的に、あなたの自我が成熟しきっていれば、真実の覚者と出会った時にそれが真実の覚者であるという直観を得る可能性を持つことができるとする。
自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。
教義と坐法と金と生活の面倒を見てくれる誰かがいれば、純粋冥想という悟りが成るわけではない。真正の覚者と出会わなければ、ノーチャンスなのだ。