◎ジェイド・タブレット-02-02
◎黒人掃除婦の三歳になる息子
医師キュブラー・ロスの体験談。
『シカゴのサウスサイドのスラムに生れた女(黒人掃除婦)は、貧困と悲惨の中で育った。
アパートには電気もガスも水道もなく、子供たちは栄養失調で病気がちだった。貧しい人たちがたいがいそうであるように、女も病気や飢えを防ぐ特別な手段を持たなかった。子供たちは粗悪なオートミールで飢えをしのぎ、医者にかかることは特別な贅沢だった。
ある時、彼女の三歳になる息子が肺炎で重体になった。地元の病院につれて行ったが、10ドルの借りがあったために診てもらえなかった。女はあきらめずにクック郡立病院まで歩いて行った。そこなら貧窮者でも診てもらえるはずだった。
不幸なことに、待合室は女と同じような深刻な問題をかかえた人たちであふれ返っていた。
待つように指示された。三時間じっと待ちながら、女は小さな子が喘鳴し、あえぐのを見ていた。息子は女があやす腕の中で息絶えた。
嘆くなといってもとうてい不可能なその経験を淡々と語る女の態度に私は胸を打たれた。
深い悲しみをうちに秘めながらも、女は否定的な言葉を吐かず、人を責めず、皮肉も怒りもあらわさなかった。
その態度があまりにも人並みはずれていたので、まだ未熟だったわたし(キュブラー・ロス)は、思わず「なぜそんな話をするの?それと瀕死の患者とがどういう関係があるというの?」と口走りそうになった。女はやさしく思いやりのある黒い瞳で、じっと私を見つめ、まるで私の心を読んだようにこう答えた。「いいですか、死は私にとって、なじみ深いものなんです。古い古いつきあいですからね。」
私は師を見上げる生徒になっていた。「私はもう死ぬことが怖くありません。」女は静かだが、はっきりとした口調で続けた。「死にそうな患者さんの部屋に入っていくと、患者さんが石のように固くなっていることがあります。しゃべる人が誰もいないんです。だからそばに行くんです。時には手を握って、「心配することはない、死はそんなに怖いものじゃないって、言ってあげるんです。」そういうと女は口を閉ざした。』
(人生は廻る輪のように/キュブラー・ロス/角川書店P179-180 から引用)
この黒人掃除婦は、禅の表現で言えば、大死一番をしてしまったのである。