アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

細川ガラシャの十字架

2023-09-19 15:59:14 | キリスト者の秘蹟neo

◎散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

(2020-11-29)

 

大阪の南蛮文化館に細川ガラシャが肌身離さず持っていたとされる十字架が展示されている。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm

表には明智家の家紋である桔梗と秋草とトンボが彫られ、裏面には竹と鶴が象嵌され、純銅製の象嵌に一部金彩と小さいが細工は綿密豪華なものである。

 

細川ガラシャは、明智光秀の三女「たま」として生まれ、15歳で、当時その武将としての器量を織田信長に認められていた細川忠興に嫁ぎ、二子に恵まれた。ところが19歳の時本能寺の変が起こり、細川忠興は光秀から加勢の出兵を求められたが出さなかった。たまは、一朝にして謀反人の娘となったが、忠興の愛情もだしがたく、これを殺さず、丹後の国の味土野(京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。幽閉中男子一名が生まれ、豊臣秀吉の許しもあって、幽閉期間2年で大阪に転居した。

 

夫忠興が九州に赴任中に、カトリックに傾倒。これに反発したのか、忠興は「五人の側室を持つ」など辛く当たったため、神父に離婚の相談をするなど夫婦仲は冷えていた。

 

1587年伴天連追放令が出される中、彼女は洗礼を受け、ガラシャ(gratia、恩寵、恵)の洗礼名を受けた。

 

1600年7月、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は、「妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、全員切腹するように」と言いおいていたが、敵方の石田三成が大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしてきた。

 

石田三成の手勢が屋敷を囲んだところで、侍女や他の女たちを逃がした後、ガラシャは、家老小笠原秀清に介錯させた。ガラシャの死後、小笠原秀清も屋敷に爆薬を仕掛け、ガラシャの遺体を残さないようにして自刃。

 

ガラシャの辞世。

「散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 

明智光秀の居城は亀山城で、大本教の本部。出口王仁三郎の霊眼では、明智光秀は、秀吉と結託して織田信長を謀殺、中国大返しの後は、天王山が決戦となることが最初からわかっており、信長を殺害後はわざとぐずぐずして、秀吉に討ち取られたことにした。光秀は、日本の風土では、主殺しの汚名を着た者の天下は長続きしないことはわかっていたからである。

 

その後、光秀は千利休になりすまし、秀吉の参謀として長年にわたり秀吉に献策し続け、朝鮮征伐もその一つだとする。彼によれば、何でも光秀=千利休説は千家長男の一子相伝の秘密だとか。

また利休切腹の原因は、娘を秀吉の側室に出すのがいやだったからなどと取りざたされてもいるが、誠に二人の英雄の心中を誰が知ろう。(随筆集水鏡/出口王仁三郎)

 

ガラシャも戦国一の美貌であったからこそ狙われたという側面はあろうし、だからこそ忠興も手放そうとはしなかったのだろう。

 

出口王仁三郎は、「生まれつきというものは、過去のカルマで決まっているものだから、美人は美人として、醜女は醜女としての本分を守るのが天地惟神の大道である。このように上下の万民が一致して、美醜などその差はあるがその本分を守る状況となれば、神示にいうところの万民が平等の、運不運のない五六七(みろく)の世が現出するのである。」とする(霊界物語第四六巻第一七章「惟神の道」)。この考え方は、何でも平等の現今の考え方とは違うが、現代のようにスーパーリッチを許す一方で表面の平等に神経質であれば、やがて相互の争闘は止むことなく世界戦争に発展していく仕掛けである。

 

ガラシャの本分を守るというのが、「散りぬべく 時知りてこそ」。

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只管打坐の7ステップ-4

2023-09-19 07:01:31 | 只管打坐neo

◎絶対に買えない最高の逸品

(2007-10-27)

             

ダンテス・ダイジは、身心脱落のことを「宇宙と一体という経験のみにとどまらない、全くの何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道」と説明している。

 

いきなりこういう説明を受けても、とっつきにくく、全くの何のことやら想像を絶してしまう。大体こんな説明をするから、折角門前まで来て中を見ようとする物見高いお客さんをみすみす帰してしまうようなものだとつくづく思う。

 

そこで、クリシュナムルティの生き方や著作を見ると、それがどんなものなのか、段々見当がついて来るのではないだろうか。そうは言っても、クリシュナムルティのやり方だって、「この品物はどんなに頑張っても買えませんが、こんなに素晴らしい品物でーす」みたいな宣伝をしているようなところはあるけれど。

 

ダンテス・ダイジの只管打坐の7ステップは、これだ。

『ステップ1.

固定静寂

エネルギー

パワー

 

ステップ2.

あたりまえな生命の暖かさ

意識する必要のない大安心

完全にあたりまえに生きていること

 

ステップ3.

至福

Every thing is ok の情熱と平安

実用的な霊的ビジョンと鋭敏な感受性

 

ステップ4.

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ

 

ステップ5.

カオス・全面的な真っ暗闇

パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション

美と調和のバイブレーション

 

ステップ6.

あらゆるレベルでの智恵・インスピレーション

直感・個生命としての完全な納得

個我を残した時点での限界的英知

Everything is Everything

 

ステップ7.

エクスタシー・すべてのすべて

身心脱落・脱落身心

究極の根底・ニルヴァーナ

唯一の私自身・私自身がない私自身

すべてのものとなって現れている私自身

 

(注1)どの時点でどのステップが出てくるかわからない。

(注2)人により、第一番目から六神通を持つ場合もあり得る。

ただし、それにとらわれてしまえば只管打坐の進行は自動的に止まってしまう。

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

最初にこのステップを見た時にはこのプロファイルの根底にある原理原則など想像もつかなかったが、今見てみると七つのステップとは、七つのチャクラに照応した区分になっていることがわかる。

 

ダンテス・ダイジは、只管打坐のステップなどというものは、はなから問題にしていないが、ステップなどというものがあるとすればという条件つきでこのステップの説明を始めている。

 

我々が只管打坐を知的にイマジネーションするに当たっては、こうしたステップを相手にしないものこそが只管打坐であるという彼の説明全体に横溢する自由奔放な気分を、忘れてはならないだろう。

 

イメージが掴めても掴めなくても、さあ坐ってみよう。

 

きちんとした理由を示すことなどできないが、自分が気に入っている身の回りの道具や持ち物や、この劣悪だが素晴らしい文明の息吹は、それによっていくらでも残ることになるのではないだろうか。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-2

2023-09-19 06:54:02 | ダンテス・ダイジの風光

◎絶対者の体得・絶対の全面的覚醒が純粋冥想

 

 『ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。

そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、 全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋冥想とすると、それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、結局は、禅か、クンダリニー・ヨーガに包含されている。

最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。

 

今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。

公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。

クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として現出している全実在の構造的側面。

そして只管打坐は、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。

以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。

 

そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋冥想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。それが、純粋冥想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅳ~ⅴから引用)

 

最初にクンダリニー・ヨーガの説明が置かれている。いきなりインド伝来のクンダリニー・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガ系冥想の代表として置かれている。これで想定されているのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において彼自身が披歴している、脱身からニルヴァーナの道筋であって、

『身体上の死の超越すなわち不死性の獲得』に至らなければ十分とは言えないということ。そのレベルに至って、脱身以降は、道教の柳華陽や、古神道の出口王仁三郎の示す『無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態』のように宗派を超えて共通の、肉体からニルヴァーナへのハイウェイが広がっていると見るべきなのだろうと思う。

 

禅といえば、公案禅と只管打坐という2テクニックが代表的冥想法。公案によってとある哲学的世界を構築し、絶対的に解のないことに素直に向き合えば、絶対無の自己同一化という恩寵は起こり得る。ダンテス・ダイジは、隻手の公案を透過した。彼は隻手の音声の中に『絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面』を見たのだ。

だが公案禅は、密参禅など悟りとは無縁の安易な道に逸れやすいという側面もある。

只管打坐のやり方は普勧坐禅儀などに出ている坐り方で、背骨を垂直にしさえすれば、身心脱落が起こるが、実際はいうほどに簡単ではない。『人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、全面的に理解』することが、只管打坐の冥想姿勢・ポスチャーにあるのだろう。また『絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面』は、彼の示す只管打坐の7ステップから当たりをつけることができる。

そして最後に、真正の覚者との出会いがなければ、その冥想は、なんちゃって冥想、ファッション瞑想、坐法・メソッド、セラピー止まりとなる。一時的にはよい状態があるかもしれないが、結局何も解決しないという手法群である。

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