◎純粋冥想とは何か
純粋冥想とは、冥想とどう違うのか、どのような冥想なのか。これについて集中的に書かれているのが、ダンテス・ダイジのアメジスト・タブレット・プロローグの序言である。
純粋冥想としての冥想法は、禅とクンダリーニ・ヨーガ。
どのように精神を成熟させていくのか、
どのように正しい師と出会うのか、
真正の覚者とは何か、
生とは何か、
死とは何か、
自分とは何か
などの主要な問題に対する方向性がすべて関連した形で呈示されているのは、空前絶後と言ってよいと思う。
『序言
あらゆる冥想も、
あらゆるセラピー、ムーヴメントも、
あらゆる宗教・思想・イデオロギーも、
おおよそ、
あらゆる人間性の営為が、
人間の根源苦、
一切万象の根本無明に対して
いかなる効能もないことを見抜く時、
私達は初めて、
人間苦そのもの・根本無明そのもの、
私達にとっての、
全現実そのものを、
ただ、
見守り、聞き守り、生きていく。
これが、
純粋冥想の発心修行である。
純粋冥想には、初めがあって終りがない。
そして、
純粋冥想には、初めも終りもない、
全体者の多様多元の戯れなるがゆえに。
あらゆる人間行為が、
情熱の最極点で行なわれ、
そこに、洞察と直観がともなう場合には、
行為は、必然的に無行為の入口へ
すなわち絶対無の行為の入口へ
純粋冥想へと変容する。
それは、また、
情熱・憧憬の最高形態、
渇望の最高開放である、
全面否定を通過するということでもある。
全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出かたの一つだ。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅱ~ⅳから引用)
日々のささやかなあるいは大それた願望とその実現に向かっての努力が水泡に帰す時、人間としてのどんな努力も何の意味もないのではないかと感じさせられることがある。
その時、人間苦そのもの、この世にあるものが永続するものだという誤った認識そのもの、それは私達にとっての全現実そのものだが、
それを、ただ「見守り、聞き守り、生きていく。」ことが、純粋冥想の発心修行だとする。
OSHOバグワン流に言えば、隙間を認知し、「見守り、聞き守り、生きていく。」ことだろうと思う。それは、悲しく、苦しく、情けなく、みじめで、割り切れないものだ。
これは、ネガティブな事象を中心に挙げているが、ドラッグのような中性的事象や、セックスのようなポジティブな事象でも純粋冥想の発心たり得る。だから上述の三種の事象を包含する「情熱の最極点で行なわれる人間行為」において、洞察と直観が伴うケースで、冥想の可能性を示す。さらにその状態での行為は、無行為すなわち絶対無の行為の入口へ、純粋冥想へと変容する、と結論が早々に置かれている。
人生の可能性のぎりぎりを徹見することで、十分に満足しちゃう人も多いのかもしれないが、それは冥想修業のスタートラインに立っただけなのである。
道教の魏伯陽は死に至る毒薬を飲めと指示することで、その人がスタートラインに立ったかどうかを弁別したという故事まである。
なんちゃって冥想、ファッション瞑想を始めただけでは、純粋冥想の始まりではないのだ。
また何かの拍子に隙間を見ることはあるだろうが、見るに際して十分な生きる情熱、情熱の最極点という“タイミング”は冥想の成就のために必要な要素なのだろうと思う。
そして、すべてを望めば、すべてが手に入らないという現実に直面する。これが、「全面否定は、全面肯定自身が、人間に現れ出る出方の一つ」であって、世界の逆転となる。