◎疎山寿塔の公案は曲者
虚堂智愚(1185-1269)は、宋末の人。京都紫野の大徳寺は、この人なくしては成立しなかった。
虚堂智愚(1185-1269)は16歳で出家。運庵普巌に参禅し、古帆未掛(こはんみか:舟に古くからの帆すらかかっていなかった時はどうか?)の公案をもらい、最初は何を言っても師運庵に罵倒された。
ある日、ものごとに大小の区分はないという見解をもって師に参禅したところ、古人のことを論評していつ終わりがあるかと返され、退散した。
虚堂智愚は、ひどく落ち込んだ。ところが突然、古帆未掛の公案が見極められ、さらに「清浄な行者は涅槃に入らない」という公案をも会得し、他のいくつかの初歩的公案もわかってきたことを自覚したので、翌朝参禅(師に回答を呈示すること)した。運庵師は、彼の顔色が違っていたので、古帆未掛の公案をやめさせ、南泉斬猫(南泉が寺の皆でかわいがっていたペットの子猫を斬る)の公案を与えた。
この公案には、趙州が草履を頭に載せた故事があるが、虚堂が「大地ですら、載せて起こせません。」と答えたところ、師は頭を低めて微笑した(小悟を認めた)。
この小悟から半年たったが、心は昔のように騒がしくなることがあった。そこで、疎山寿塔の公案を与えられ、三、四年苦しんだ。
ある日、無心になって、この公案に出てくる羅山禅師が光を放った時のことを納得して、ようやく自在を得て人にごまかされなくなった(大悟と思われる)。この時、以前看ていた公案を見直してみたら、今日の所見と全く異なっていたことから、悟りは言葉で言えるものではないと信知した。
(参照:「悟り体験」を読む (新潮選書)/大竹晋/新潮社P51-54)
虚堂智愚は、74歳にして中国の阿育王山の住職であったのだが、1256年(宝祐三年)讒言にあい、僧籍を剥奪されて一か月獄に入った。
出獄直後の1259年、大応国師南浦紹明は、虚堂智愚に出会い、嗣法(悟りを認められた)して帰国。その後大徳寺開祖の宗峰妙超(大燈国師)に悟り(ニルヴァーナ)を伝えた。
臨済禅中興の祖白隠も、長野県飯山の正受老人膝下で修行中は、穴ぐら禅坊主と呼ばれ、何か月も白隠を怒鳴りつづけた。ある日托鉢中に他家の門口で、老婆のあっちへ行けという声に気がつかなかった。老婆が箒を持ってきて、白隠の腰をしたたかに叩いた。その途端に、白隠は与えられた南泉遷化の公案(南泉という坊さんの死はどういう意味か?)や疎山寿塔の公案などがはっとわかった。疎山寿塔の公案は白隠の小悟のきっかけになった。