【第六章】正師の見分け方
1.自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない。
冥想のメカニズムを知的に納得することで冥想修行のモチベーションが起こってきたとすると、次のテーマは、自分が悟っていないことの自覚と、正師との出会いである。
(1)自分が悟っていないことの自覚
人が神仏を悟るやり方には次の三区分があり、いずれの体験もなければ、自分は悟っていないということである。
(a)神仏に憑依される
これは、憑依中について自分では何が起きたかわからないので、審神者の介在が必要になる。
(b)神仏を見る
これは、神仏を見ている自分が残っている状態なので、自分の体験である。
(c)神(仏)人合一
これは、神仏を見ている自分がもはやない状態なので、自分の体験とはいえない。体験とはいえない体験となる。
(2)正師との出会い
正師とは悟りを得たマスターのことである。
例えば、気分が落ち着く、元気になる、健康になる、血行がよくなる、あるいは金運上昇や恋愛成就とか、合格祈願などの現世利益を狙った「効果を求める冥想」においては、必ずしも正師は必要ではない。正師を必要とするのは、ほとんど人生の卒業に手がかかった冥想修行者であって、人生上の世俗のことの方が重要と思う人にとっては、正師はまだ必要とは思われないのだろう。
中国道教の魏伯陽には3人の弟子がいたが、死に至る毒を飲めと命じることで、毒を飲んだ一名だけに修行の継続を認め、飲まなかった二名は自分の意志で修行をやめて故郷に帰ってしまったという故事がある。正師が必要な段階にあったのは一名だけだったのだ。帰郷した二名は正師と出会っていたにもかかわらず、正師の見分けはつかなかったのだ。
以上まとめると、自分が悟っていなければ、既に正師に出会っていようがいまいが、誰が悟っていて誰が悟っていない人か見分けることはできないから、誰が正師かどうかもわからない。このような状況では、正師に出会うことは、まったく自分の希望や意志とは別個のところで起きるように思われる。
これを踏まえてユクテスワは、「真剣な求道者が一定の進境に達すると出会える」と突き放した説明をしているが、もっともなことだと思う。
1.自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない。
冥想のメカニズムを知的に納得することで冥想修行のモチベーションが起こってきたとすると、次のテーマは、自分が悟っていないことの自覚と、正師との出会いである。
(1)自分が悟っていないことの自覚
人が神仏を悟るやり方には次の三区分があり、いずれの体験もなければ、自分は悟っていないということである。
(a)神仏に憑依される
これは、憑依中について自分では何が起きたかわからないので、審神者の介在が必要になる。
(b)神仏を見る
これは、神仏を見ている自分が残っている状態なので、自分の体験である。
(c)神(仏)人合一
これは、神仏を見ている自分がもはやない状態なので、自分の体験とはいえない。体験とはいえない体験となる。
(2)正師との出会い
正師とは悟りを得たマスターのことである。
例えば、気分が落ち着く、元気になる、健康になる、血行がよくなる、あるいは金運上昇や恋愛成就とか、合格祈願などの現世利益を狙った「効果を求める冥想」においては、必ずしも正師は必要ではない。正師を必要とするのは、ほとんど人生の卒業に手がかかった冥想修行者であって、人生上の世俗のことの方が重要と思う人にとっては、正師はまだ必要とは思われないのだろう。
中国道教の魏伯陽には3人の弟子がいたが、死に至る毒を飲めと命じることで、毒を飲んだ一名だけに修行の継続を認め、飲まなかった二名は自分の意志で修行をやめて故郷に帰ってしまったという故事がある。正師が必要な段階にあったのは一名だけだったのだ。帰郷した二名は正師と出会っていたにもかかわらず、正師の見分けはつかなかったのだ。
以上まとめると、自分が悟っていなければ、既に正師に出会っていようがいまいが、誰が悟っていて誰が悟っていない人か見分けることはできないから、誰が正師かどうかもわからない。このような状況では、正師に出会うことは、まったく自分の希望や意志とは別個のところで起きるように思われる。
これを踏まえてユクテスワは、「真剣な求道者が一定の進境に達すると出会える」と突き放した説明をしているが、もっともなことだと思う。