◎【第六章】正師の見分け方
◎2.正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない。
正師の見分け方の基本は、正師も悟っている人だから、覚者の基本的な態度なども見分け方の一つである。覚者の基本的態度とは、フランクであること、嘘を言わないこと、他人に何かしてあげるのに打算のないことなどが挙げられるが、ここでは、この金とメリット優先の時代に対して、お金の受け取り方を示す。
およそ悟った後に世俗との折り合いをどうつけるかというのは、未悟の者にとっては大きな問題だが、それについては、いくつかの故事がある。臨済と普化が檀家の御馳走に招待されたが、普化は御馳走のテーブルを蹴り倒して臨済の不徹底ぶりを罵ったという話である。臨済も禅の王者と言われるほどの徹底した名僧である。普化も最期は屍解して亡くなるほどの問題ないレベルの高僧。
そういう世俗との折り合いについては、必ず神仏の方を優先するものだから、覚者の対応は必ずその原則による。
禅僧趙州は、貧窮に甘んじ、椅子の足の一本が折れたので木切れを添えて縛って使っていた。一休の親友であった一路は、草庵のもっこに入れてくれる喜捨で食べていたが、ある日もっこに馬の古沓(ふるくつ)を入れられたので、飢えて死んだ。藍采和は、もらった銅貨を他人に贈りながら生きた。
そうした事例の中でもっともわかりやすいのは、江戸時代の禅僧至道無難の説明である。
『道心を守る人は、すべての物事に自分が過ちをしないように恐れるべきだ。自分の為すべき事をせずにいながら衣食住が安楽なのは、必ず天罰を受けるものだから、道心を守るには、すべてが不足不如意なのを吉とする。』
こうしたロジックは、謙遜という生活態度にもなっていく。
また正師ではないマスターの場合、超能力志向、権力志向、財産志向などが見えるものである。
こうした理由で、正師は、お布施は受け取るが教授料はとらないものだが、教授料を取って道を教えることにはもう一つの問題点がある。それは、金と引き換えに真理を伝えることになるので、それはもはや真理とは言えなくなることである。
◎2.正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない。
正師の見分け方の基本は、正師も悟っている人だから、覚者の基本的な態度なども見分け方の一つである。覚者の基本的態度とは、フランクであること、嘘を言わないこと、他人に何かしてあげるのに打算のないことなどが挙げられるが、ここでは、この金とメリット優先の時代に対して、お金の受け取り方を示す。
およそ悟った後に世俗との折り合いをどうつけるかというのは、未悟の者にとっては大きな問題だが、それについては、いくつかの故事がある。臨済と普化が檀家の御馳走に招待されたが、普化は御馳走のテーブルを蹴り倒して臨済の不徹底ぶりを罵ったという話である。臨済も禅の王者と言われるほどの徹底した名僧である。普化も最期は屍解して亡くなるほどの問題ないレベルの高僧。
そういう世俗との折り合いについては、必ず神仏の方を優先するものだから、覚者の対応は必ずその原則による。
禅僧趙州は、貧窮に甘んじ、椅子の足の一本が折れたので木切れを添えて縛って使っていた。一休の親友であった一路は、草庵のもっこに入れてくれる喜捨で食べていたが、ある日もっこに馬の古沓(ふるくつ)を入れられたので、飢えて死んだ。藍采和は、もらった銅貨を他人に贈りながら生きた。
そうした事例の中でもっともわかりやすいのは、江戸時代の禅僧至道無難の説明である。
『道心を守る人は、すべての物事に自分が過ちをしないように恐れるべきだ。自分の為すべき事をせずにいながら衣食住が安楽なのは、必ず天罰を受けるものだから、道心を守るには、すべてが不足不如意なのを吉とする。』
こうしたロジックは、謙遜という生活態度にもなっていく。
また正師ではないマスターの場合、超能力志向、権力志向、財産志向などが見えるものである。
こうした理由で、正師は、お布施は受け取るが教授料はとらないものだが、教授料を取って道を教えることにはもう一つの問題点がある。それは、金と引き換えに真理を伝えることになるので、それはもはや真理とは言えなくなることである。