アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

只管打坐

2022-11-20 06:55:35 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(8)只管打坐

只管打坐以降、つまり只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、丹田禅は、それ以前の健康法的な冥想とは一線を画し、窮極を目指す冥想となる。ただし丹田禅では、健康法的色彩が強いが見性の可能性を見ている。よって窮極を目指す冥想としては、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガが、より純粋であるということになる。

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガの違いは、只管打坐は、すぐさまニルヴァーナに届く、一方クンダリーニ・ヨーガは、徐々にニルヴァーナに至る。あるいは、只管打坐は、生の側から極めることで死の側もクリアする。そして、クンダリーニ・ヨーガは、逆に死の側から極めることで生の側もクリアする。この場合の死の側とは、無意識の世界、霊的世界を指す。

(a)只管打坐で悟った人
道元、天童如浄、老子、クリシュナムルティ、久松真一など

(b)只管打坐の悟り
身心脱落がそれ。クリシュナムルティの著作では、しばしばothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。クリシュナムルティを読むと、悟りが平素にそれこそ毎週でも起こるような印象を持つのだが、道元の正法眼蔵では、一生に一度しか起こらなかったであろうという印象を受ける。一般に身心脱落のような大悟イベントは、一生に一回であり、二回も稀であって、クリシュナムルティのように毎度起こるのは例外なのだと考えている。

以下に老子とダンテス・ダイジの只管打坐の悟りを挙げる。

老子 第4章道冲
『道はちょうど中の冲になっている器のようなもので、見たところ何もあるようには見えないが、しかもその無形のところが、用を為しているのである。
そして道はこれを用いても盈(み)ちるということがない。それはちょうどあの淵のようなものであり、万物の本源に似ている。
道は静かに、存在しているようにも似ている。誰の子であるかもわからない。天地の主宰者たる上帝よりなお先からあるようである。』

ダンテス・ダイジ
『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも物質にも、現象にも束縛されず、まして、宇宙と一体になることでもない。

もちろん、初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、絶対無であるところの、究極の答えであるところの、唯一存在するところであるところの、或いは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元は、それを「身心脱落」と言ったのである。そして、一体幾人の人が、その究極の自己、無相の自己、無限の自己、絶対の自己、すなわち身心脱落を経験―――いいや、身心脱落そのものの、透明なる自己自身に目覚めたであろうか。

只管打坐とは、即座に、この生きているまま、この肉体を用い、この世界に生きているまま、無限定な、永遠なる、覚自体なる覚に目覚めることなのである。神自身が神を神することなのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP112-113から引用)

(c)只管打坐の方法
坐法については、古典である普勧坐禅義が基本であるが、ニルヴァーナのプロセスとテクニックではさらに詳しい。背骨を垂直にするのがポイント。坐相については、正師にチェックしてもらうのがよい。誤った坐り方で何年も無駄にすることはない。
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