◎【第七章】冥想に取り組む姿
◎3.冥想する気分にならなくても坐る
生きていれば、いやなことはあるものだ。だが、いやな気分や沈んだ気持ちを払拭しようとして冥想するのは、本来邪道である。例えばマントラ禅に分類される念仏やお題目を唱えて、南無阿弥陀仏になりきったり、南無妙法蓮華経に成り切ったりすれば、血行はよくなるし、気分はスッキリ爽快となる。だがそうしたポジティブな効果があったとしても、効果だけを求めるのは邪道なのだと思う。
だがそれは、十分に冥想が深まった場合のこと。
実際問題として、平日朝夕30分の冥想時間をとるのは相当に大変なことである。全く冥想しないのはまずいので、そこでやむなく短時間の冥想をすることになる。その場合、冥想する気分になってから坐るというのは、ほとんどあり得ないことになる。実際に時間に追われて暮らしていけばそうなりがち。
われわれの大部分は、死ぬことと同様に生きることをも恐れている。すなわち家族のことを心配し、世間の批判を恐れ、仕事や生活の保証を失うことや、その他多くのことに恐れを抱いて生きている。こうした、不安定、不愉快な気分をかかえて、毎日生きていく中で冥想するとは、
まさに毎日の生活に直面するということ。
つまり平素の面白からざる気分で冥想を始めざるを得ないことの方が多いということ。
冥想熟達者は数分で定に入ることができるという。だが、そういう他人の冥想のことを言っても仕方がない。自分の冥想に上手下手はないのだ。どんな気分でも坐るしかないのだ。
ケン・ウィルバーが、東日本大震災でオープン・マインドを説いたのも、被災後の鬱屈した気分でもオープン・マインドを、ということだが、どんな気分でも坐るということと発想は同じ。
◎3.冥想する気分にならなくても坐る
生きていれば、いやなことはあるものだ。だが、いやな気分や沈んだ気持ちを払拭しようとして冥想するのは、本来邪道である。例えばマントラ禅に分類される念仏やお題目を唱えて、南無阿弥陀仏になりきったり、南無妙法蓮華経に成り切ったりすれば、血行はよくなるし、気分はスッキリ爽快となる。だがそうしたポジティブな効果があったとしても、効果だけを求めるのは邪道なのだと思う。
だがそれは、十分に冥想が深まった場合のこと。
実際問題として、平日朝夕30分の冥想時間をとるのは相当に大変なことである。全く冥想しないのはまずいので、そこでやむなく短時間の冥想をすることになる。その場合、冥想する気分になってから坐るというのは、ほとんどあり得ないことになる。実際に時間に追われて暮らしていけばそうなりがち。
われわれの大部分は、死ぬことと同様に生きることをも恐れている。すなわち家族のことを心配し、世間の批判を恐れ、仕事や生活の保証を失うことや、その他多くのことに恐れを抱いて生きている。こうした、不安定、不愉快な気分をかかえて、毎日生きていく中で冥想するとは、
まさに毎日の生活に直面するということ。
つまり平素の面白からざる気分で冥想を始めざるを得ないことの方が多いということ。
冥想熟達者は数分で定に入ることができるという。だが、そういう他人の冥想のことを言っても仕方がない。自分の冥想に上手下手はないのだ。どんな気分でも坐るしかないのだ。
ケン・ウィルバーが、東日本大震災でオープン・マインドを説いたのも、被災後の鬱屈した気分でもオープン・マインドを、ということだが、どんな気分でも坐るということと発想は同じ。