◎超能力の特質
冥想の最大の障害の一つは、まず超能力である。冥想の修行の進歩の手がかりとして『超能力が使えるようになった』というのはとてもわかりやすい。しかし、超能力そのものに善悪の色はないけれど、機能が強力であるだけに、その使い方を簡単に誤りやすいのである。
そして、どの冥想段階でも、超能力の発現に伴い、それにとらわれてしまえば、冥想の発展は自動的に止まる。
超能力は、それを持つことによって人間の自分勝手な欲望を満たしがちなものであり、欲望を満たすことによって更にまた自我を増大させるという悪循環に陥りがちである。
⑴超能力の特質
仏教では、超能力のことを六神通力と言い、天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、・他心通(他人の心の中が判ること)・宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)・神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)・漏尽通(煩悩がない)の通力とされる。
この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに触れないと煩悩がなくなることはない。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現している有り様なので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。
さてあなたが超能力を使えるようになったとする。
たとえば宿命通が備わったら、競馬の当たり馬やこれから価格が上がる株を予想してがっぽり儲けようとするでしょう。他心通が備わったら、商売がたきが次に何をしようかを知り、先手を打とうとするでしょう。千里眼が備わったらマスコミが報道でカットした事件の現場とか真相を見にいったりするでしょう。
チベットでは、額の中央に器具で穴をあけることで人為的に千里眼を開花させ、千里眼で金の隠し場所を探し、盗みに利用するという奇怪な技術まであるという。
よっぽどできた人以外は、このような安易な使い方をするものだと思う。超能力が開花した時から、その人は道徳的な意味で聖人君子に変わるわけではないのだ。
冥想の最大の障害の一つは、まず超能力である。冥想の修行の進歩の手がかりとして『超能力が使えるようになった』というのはとてもわかりやすい。しかし、超能力そのものに善悪の色はないけれど、機能が強力であるだけに、その使い方を簡単に誤りやすいのである。
そして、どの冥想段階でも、超能力の発現に伴い、それにとらわれてしまえば、冥想の発展は自動的に止まる。
超能力は、それを持つことによって人間の自分勝手な欲望を満たしがちなものであり、欲望を満たすことによって更にまた自我を増大させるという悪循環に陥りがちである。
⑴超能力の特質
仏教では、超能力のことを六神通力と言い、天眼通(千里眼:遠くのものが見える)、天耳通(地獄耳:遠くの音が聞こえる)、・他心通(他人の心の中が判ること)・宿命通(自分や他人の過去・現在・未来が分かる)・神足通(どこへでも自由に行くことができる=アストラル・トリップ)・漏尽通(煩悩がない)の通力とされる。
この中で、漏尽通は、いわゆる超能力とは言えない。漏尽通は解脱であり、究極=ニルヴァーナに触れないと煩悩がなくなることはない。また携帯電話の発達により、ほとんどの人が天耳通は実現している有り様なので、神通力としての天耳通のありがたみはあまりない。
さてあなたが超能力を使えるようになったとする。
たとえば宿命通が備わったら、競馬の当たり馬やこれから価格が上がる株を予想してがっぽり儲けようとするでしょう。他心通が備わったら、商売がたきが次に何をしようかを知り、先手を打とうとするでしょう。千里眼が備わったらマスコミが報道でカットした事件の現場とか真相を見にいったりするでしょう。
チベットでは、額の中央に器具で穴をあけることで人為的に千里眼を開花させ、千里眼で金の隠し場所を探し、盗みに利用するという奇怪な技術まであるという。
よっぽどできた人以外は、このような安易な使い方をするものだと思う。超能力が開花した時から、その人は道徳的な意味で聖人君子に変わるわけではないのだ。