◎ジェイド・タブレット-11-7
◎アートマン-7
◎万象の種子がある世界からそれすらもない世界へ
「玉ようかん」は、風船に詰められたピンポン球サイズの和菓子で、爪楊枝で風船をつつくと風船が割れて中の羊羹が食べられるようになる。第六身体アートマンは、爪楊枝よろしく中心太陽に突入するが、その羊羹たる第七身体ニルヴァーナの属性を前段に引き続いてOSHOバグワンが述べる。
『だから第六身体において実体性(ポジティブ)が消え失せたら、あなたは第七身体に入ってゆく。第六の現実が第七の扉だ。実体性が存在しなければ―――どんな神話もどんな夢もなければ―――夢はやむ。そのときには、ただあるものが、真如がある。いまやなにも実在しないが、実在がある。ものごとはないが、源がある。木は存在しないが、種子はある。
知るに至った者たちは、このような心を種子のあるサマーディ―――サマーディ・サヴィージ―――と呼んできた。あらゆるものが消え失せ、あらゆるものが始原の源、宇宙の種子へと帰還する。木は存在しないが、種子はある。だが種子からも夢見はなお可能なため、種子でさえ破壊されねばならない。
第七身体においては、夢も現実も存在しない。夢見が可能な地点までは現実のなにかを見ることができる。もし夢の可能性がないとしたら、現実も幻想も存在しない。だから第七は中心だ。もう夢と現実はひとつになった。どんな違いも存在しない。無の夢を見ようが、無を知ろうが、無は同一のものにとどまる。
もし私があなたの夢を見るとしたら、それは幻想だ。もしあなたを見るなら、それは現実だ。だがあなたの不在の夢を見ようと、あるいはあなたの不在を見ようと、なんの違いもない。あなたがどんな不在の夢を見ても、その夢は不在そのものとしては同じだ。実体的(ポジティブ)なものに関してしか、本当の違いは存在しない。だから第六身体までは違いが存在する。第七身体においては無しか残らない。種子についてさえ、その不在がある。これがニルヴィージ・サマーディ、無種子三昧だ。もはや夢見の可能性は存在しない。』
(秘教の心理学/和尚/瞑想社P141-142から引用)
※実体性or実体的:それ自体によって存在し、また他の存在を必要とせずに存在する様。
これによると、扉だ、サマーディだと彼は殊更に強調するが、あまりボディたる第六身体のどこが扉なのかは明確ではない。ただ有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が起これば、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)に進まざるを得ないというモウメンタムはわかる。
ダンテス・ダイジの冥想十字マップでは、有種子三昧に相当する有相三昧と、無種子三昧に相当する無相三昧とを空間的進化の横ラインに置き、第六身体の知恵と第七身体ニルヴァーナを時間的進化の縦ラインに置いている。つまり単純に有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が第六身体アートマン、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)が第七身体ニルヴァーナだと考えるべきではないということなのだろう。
その体験とは言えない体験の中で、扉と部屋の中味が自ずとわかるということだろうか。