◎ジェイド・タブレット-04-02
◎思春期の垂直の道-2
街の霊感者、霊能力者には、その予言が当たると見るや金の亡者、権力亡者、ギャンブラー、軍人などが集まって来るものだ。株価、地価、ヴォラティリティ、商品市況、出目、選挙予想、軍備動向など、予知能力を利用してやろうと待ち構えている人はいつでもどこでもいるものだ。
それと同様に、垂直の道の冥想修業の途中で霊能力や超能力が目覚める修行者はいるものだが、霊能力や超能力にこだわると、修行が前に進んで行かないばかりか、わが身を滅ぼす原因になる。その典型的な例はカルトの教祖になってしまうことで、世の東西を問わず、古来からそういう例は多数ある。地下鉄サリン事件で有名なオウム真理教はその具体例であって、海外でも人民寺院やブランチディヴィディアンなども教祖は皆超能力者であった。
破綻していない現代カルトには、教団内部に幹部ファミリーを育成し、信者からの収奪と資金繰りが続く限り、何世代でも継続できるようにしているものもある。ところが、本来覚者が中心であるべき教団がそのような形になると、永続はしないものだ。キリスト教、仏教などの世界宗教は、時代が下っても新たな覚者が教団周辺に繰り返し出て来たから命脈を保ってきたものであって、金の力で継承されてきたわけではない。
垂直の道すなわち日本密教、古神道、チベット密教、クンダリーニ・ヨーガ、道教内丹などは、修行の途中で霊能力、超能力が発現しやすいがゆえに、特に以上のような点については警告、禁戒を行ってきたものである。
夢の中では、現実には絶対に結ばれないとわかっている異性とでも結ばれてしまうというようなことがあり得るものだ。それは夢の世界だからできる。ところが、そういった類の願望を霊能力、超能力で実現しようとしたりする人は、ままいるものだが、それでは垂直の道で究極に達することはできない。
思春期にあっては、世俗的な願望と究極を究めることがどちらが価値があることだろうかなどという疑問を抱くものだが、究極を究めることとは、無用の用を生きることであって、価値でもって図ることはできない。
だが、聖なるものの極みは、それ自体石ころのように無味乾燥なものだが、そこから愛、真善美など、あらゆるポジティブなものが流れ出て来るものである。石ころは無用の用だが、賢者の石なのである。それはまことに不思議なことだが、思春期に垂直の道を学ぶ場合、まずこの点をわきまえないといけないと思う。
またこの点は、無用の用なのだから社会の一般人、常識人に向かって「無用の用は最高に優れたものだ」などという主張はできない。野に咲く花は、声高に自分からその美を主張しないからである。
聖者は弟子を勧誘する場合、弟子自身のため、家族のため、国家社会のため、世界と宇宙のために冥想修行を勧める場合があるが、それは「何の役にも立たないけど冥想修行をしよう」と勧めて乗って来る人はまずいないからである。だが、世界と宇宙のためにということは、既に無私であるから、そこに世界観逆転、無用の用の突破口がある。勧誘の最初は、自分のためにということで修行を始めても、筋のいい修行者は直に真の狙いどころがどこにあるか気がつくものである。
ここに石ころについての参考としてダンテス・ダイジの詩を掲げる。
『「奥深い心」
すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない
人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない
人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している
それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない
また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ
だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す』
(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版P94-95から引用)