◎昼と夜のサイクル根本テキスト
これは、チベット密教ゾクチェンのテキスト「昼と夜のサイクル根本テキスト」の一部。
『13 修行を確立するにあたっては、融合、放松、進歩という
三つの秘訣によって道を進む、
(最初の)融合のための方法は、快適な座にゆったりすわりリラックスして、前方の空間に心を向け、一体になることだ。
14 気を散らすこともなく、何かを対象にして瞑想するのでもないような境地にとどまる。
認識は、まるで大空のように、愛着や執着から離れている。
本来の境地は、光明であり、明知であり、驚愕の瞬間のごとく静寂と運動の区別をこえている。
不二なる明知が、赤裸々に生じる。
15 禅定においては、朦朧とした状態(昏沈)や興奮(放逸)におちいることなく、
透明にして明晰、深遠な本来の境地にとどまる。
この本来の境地にあって、思考を呼び出し、投げ捨て、反復し、増幅させても、
不動の(境地の)まま、みずからの土台にとどまることによって、自然に解脱する。』
(チベット密教の瞑想法/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P57-58から引用)
最終の15で解脱しているからには、その『禅定』は自分が残っている状態ではない。この本では、三昧に入るとか出るとか、自分が三昧に入ったり出たりするように書いているのだが、そもそも『定』と『三昧』は別物であり、『定』には、入る自分、出る自分がある。一方、『三昧』には既に自分はないのだから入る自分出る自分もない。
ヨーガでは、定と三昧は截然として区別されている。13はいわゆるファッション冥想であって、のんびりしているが、15ではのっぴきならない『三昧』に至っている。
ダンテス・ダイジの冥想十字マップの横軸は、有想定、無想定、愛、有相三昧、無相三昧の5段階に分けられ、無相三昧とはニルヴァーナのこと。これを念頭にこうしたテキストを読むべきであり、並列的に13-15があると考えると紛れるように思う。