◎弱腰な対応に終始
(2010-09-14)
中国がチベット侵略の意図を明白に見せたのは、1950年7月の昌都の北東200キロにある小さな国境の町を中国人民解放軍が制圧したのが始めとされる。
以後正規戦、ゲリラ戦を織りまぜて、特にアメリカ・CIAの支援を受けながら、チベット全土で、中国に対する抵抗が行われていた。既にチベットからは外交主権が奪われていたが、ダライラマは中国との直接交渉によって事態を打開できると信じ,北京まで交渉に行ったが、結局その交渉は失敗に終り、ダライ・ラマ自身が1959年インドに亡命するまでチベット領内での散発的な軍事的抵抗は続いていたのであった。
チベット側の全土を挙げての組織的な軍事的抵抗計画に対して、終始拒否権を発動し続けたのはダライ・ラマであって、彼の側近達ではなかったようである。これは、いままでの坊さんが書いたものばかり読んできた私にとっては意外だった。
1959年のダライ・ラマ脱出の直前に、中国によるダライ・ラマ誘拐計画が実施されようとしていることにチベット側が気がついて、それを阻止しようとしてラサの夏宮ノルブリンカに集まった三万群衆と人民解放軍との間の騒乱が発生した。その最中に、ダライ・ラマのラサ脱出が敢行されたものだった。これも知らなかった。この脱出行にもCIAの支援があった。
チベットがここまでジリ貧になったのも、1959年までの10年間、ダライ・ラマが正面切った中国との軍事的対決姿勢を打ち出してこなかったことに原因があるように見える。しかしその姿勢は宗教者としては当然のものであるから、その是非は言えない。
1955年、毛沢東が北京を離れるダライ・ラマに別れの言葉を述べた。
『「宗教は毒だ。ひとつには僧侶や尼僧は独身でいなければならないから、人口が減る。ふたつ、宗教は物質的な進歩を拒絶する。」
この言葉で、ダライ・ラマの目からうろこが落ちたらしく、ダライ・ラマはのちに毛沢東のことをこう記している。
「結局のところ、あなたは法(ダルマ)を破壊する人なのです」』
(謀略と紛争の世紀/ピーター・ハークレロード/原書房P394から引用)