◎ジェイド・タブレット-外典-10-5
◎1.死のプロセスと成道と中有行きの分岐-1
◎死には自我の死と肉体の死がある
クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を扱う技術だというが、この厳しい生存競争を伴う現代社会においてそれは使える技術なのか。それは実益とは全く関係のない趣味の世界でのことではないのか。また、そうした死の技術の狙いは何なのか。
まず死の世界とは、肉体以外のエーテル体、アストラル体、メンタル体などの宇宙を言い、広義には、個人的無意識、集合的無意識、潜在意識なども含まれる。それは、夢の中で知らずにあくがれ歩く世界であり、また肉体より微細なボディの生息する異次元の世界をも総称して死の世界と呼ぶ。
ほとんどの人は死んだら終わりだと思っているが、人は死の世界に入ることにより、人生は実はそうした死の世界のごく一部分にすぎないことを知る。それでは、人生は実は死の世界の一部分であるとは、どんなイメージなのか。
要するに現代人が生の世界と考えているのは、肉体だけなのだが、七つの身体でいえば、第二身体(エーテル体)から第七身体までは、死の世界なのである。この死の世界にはすべての他人、すべての世界、すべての時代が含まれている。
人間は、その死の世界から生まれ、その死の世界へ帰って行くのである。そんなイメージである。つまり現代社会の人間や人生についての通念とは異なるイメージとなる。
よく心霊・オカルト譚では、霊界の現象が現界へと移写されるというが、それは最初に死の世界においてできあがった出来事やビジョンがやがて現実化することを言っている。これをしても死の世界は生の世界の母胎なのである。
現代社会は肉体の死が人間のすべて終わりであることを前提に組み上げられている。肉体死によって、財産も名声も家族も人間関係もすべて終わりとなるとして、法律も社会習慣もできている。つまり誰もが内心は死の恐怖に怯え、緊張をかかえながら、社会生活を送っているのだ。
人間は、肉体死が個別人間の終わりではないことを発見することによって、そうした緊張から解放された、ある意味においては気張らない生き方を実現できる。これもクンダリーニ・ヨーガの効用の一つである。
しかしクンダリーニ・ヨーガの効用は、肉体死の絶対視という偏見を取り除いたリラックスしたナチュラルで素直なライフ・スタイルの呈示に留まるものではない。
というのは、死には2種あって自我の死と肉体の死があるからである。
チベット死者の書を見ると、自我の死は、全員にチャンスは与えられてはいるというものの、肉体死したとしても必ずしも自我の死も起こして「悟り」を開くわけではないことがわかる。肉体死する人がすべて悟りを開くわけではない。