◎格言3-1坐禅とは(老子狂言)
※格言3の原文には、小見出しも番号もなく○だけだが、分量が多いので、便宜的に番号と小見出しを振る。
『1○坐禅とは、
いかなる状況、
あるいは、いかなる世界においても、
生き生きと、
やすらかに充実している、
あるいは、たくましく充実している、
絶対それ自体を、いくたびも体験し、
そして、
死のその最後の瞬間まで、
その充実を生き尽くすことにある。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩文から引用。
これは、水平の悟り、生の側から極めるということを短文で表現したもの。十牛図第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)でわかったような気分になるかもしれないが、ここまで書いてもらわないと実際のところは想像しにくいのではないか。
【絶対それ自体を、いくたびも体験し】
これは、伊福部隆彦氏は、カルマ・ヨーガで悟り、只管打坐で悟った。江戸期の禅僧白隠は、大悟何回小悟何回と数え上げたが、そのように絶対それ自体を、何度も体験するということがあるのだろう。
道元は、身心脱落(大悟)は一回のようだが、複数回あったのだろうか。
普通の人は、一生に一回で充分ではある。