◎第八人牛倶忘
【大意】
『序
迷いの気持が脱け落ちて、悟りの心もすっかりなくなった。悟りの世界に遊ぶ必要もなく、悟りのない世界にも足をとめずに通り抜けなくてはならぬ。人と牛のどちらにも腰をすえないので、観音の千眼さえ、この消息を見抜けない。沢山の鳥が花をくわえてきて自分に捧げることなど、恥ずかしくて顔の赤らむ一シーンだ。
頌
鞭も手綱も、人も牛も、すべて姿を消した。青空は空しく大きく、連絡の通じようがない。真っ赤な溶鉱炉の炎の中に、雪の入り込む余地はない。ここに達して初めて、祖師(達磨大師=中国での禅の始祖)の宗旨にかなう。』
青空も真っ赤な溶鉱炉もニルヴァーナの比喩。
クンダリーニ・ヨーガでは、
自分が死に、宇宙全体となり、
第六身体アートマン(宇宙全体)が中心太陽ブラフマンに突入し、
ニルヴァーナに至る。
ところが、十牛図の第七忘牛存人では自分がまだ残っており、この第八人牛倶忘(人も牛もともに忘れる)に至って、自分が死ぬ以降の段階をすっ飛ばして、いきなりニルヴァーナが登場する。これが禅的悟りの特徴。逆転、倒立、サプライズの表現がないのだ。
このすっ飛ばすという点について、ダンテス・ダイジは、実は禅者も各段階を経過しているが、高速すぎて意識に上らないということをつぶやいている。
ここは、第七身体であり
禅でいう無
仏教でいう仏、涅槃、空(空の意味は多様に使われるのだが)
密教では、大日如来
道家でいう道(タオ)
気功なら太極
ヨーガなら宇宙意識、ニルヴァーナ
ヤキ・インディアンの呪術ならイーグル
キリスト教なら神
であり、言葉で表現できないものを、仮に名前をつけたものである。大日如来などと人格神ぽい名前がついていても人格神のことではない。
迷い(マーヤ)にも悟りにも腰を落ち着けないので、廓庵も慈遠も手のつけようがないと述べている。
またここに到達することを解脱とも言う。
本来もなき いにしえの我なれば
死にゆく方も 何もかもなし
(一休)
『連絡の通じようがない』とは、宇宙全体が自分一人になったのだから、誰か別の連絡する相手はもういないということ。
【訓読】
『第八 人牛俱忘
序の八
凡情脱落し、聖意みな空ず、
有仏の処、遨遊(ごうゆう)することを用いず、無仏の処、急に須らく走過すべし。
両頭に著(お)らざれば、千眼も窺い難し。
百鳥花を含むも一場の懡玀(もら)。
頌
鞭索人牛ことごとく空に属す、
碧天寥郭として信 通じ難し。
紅炉焰上争(いか)でか雪を容れん、
此に到って方に能く祖宗に合う。』
※百鳥花を含むも一場の懡玀(もら)。:
禅僧牛頭法融が、山中で一人修行して空の境地を達成した時、多くの鳥が花をくわえて捧げ、彼を祝福した。ところが、禅の四祖道信の弟子として修行を始めたら、牛頭法融に花をくわえた鳥が集まることは二度となかったという。修行過程で、超能力、霊能力が発現することがあるが、それにこだわると、進境が止まるということ。