◎第二見跡
【大意】
『序
経典をたよりに、筋道を了解し、教えを学んで牛の足跡がわかった。様々の器物が、もとは同じ金属であることをはっきりさせ、万物が自分と同じであることを知的理解する。
足跡の正邪を判断できぬのに、どうして本物か偽物かを見分けることができよう。まだ門に入ってはいないので、仮に足跡を見つけたところとする。
頌(廓庵禅師)
川のほとり、林の木陰にやたらと足跡がついている。芳草が群がり茂っているのをあなたは見たか。
たとえ深山のそのまた奥でも、天に向いているその牛の鼻をどうして隠せようか。』
これは、いろいろな書物で知的理解を深めたり、いろいろな人に会ったり、師匠の指導よろしきを得て、本物の香りや息吹に少々鼻が利くようになったレベル。
ここは、見性、見仏以前のレベルであるので、大方の冥想修行者が、このレベルに位置している。
魔境は、ある程度の冥想の深まりがなければ、起きないが、魔境もここである。
一生懸命冥想しても決定的なものが起きない人や、単なる冥想ヲタクまでがこの『見跡』レベル。霊能力の発現、超能力の発現は冥想レベルの深まりとは何のかかわりもない。
またやすらかさや喜びというようなあらゆる肯定的感情の深まりを体験することがあるが、それも決定的なものに出会ってなければ、このレベルである。
【訓読】
『見跡(足跡を見る) 序の二
経に依って義を解し、教えを閲(けみ)して蹤(あと)を知る
衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己となす
正邪弁ぜざれば、真偽なんぞ分かたん
未だ斯の門に入らざれば、権(かり)に見跡と為す
頌
水辺林下 跡偏えに多し
芳草離披たり 見たるや
縦是(たとい)深山の更に深き処なるも
遼天の鼻孔 怎(なん)ぞ他を蔵(かく)さん』