◎第一 尋牛
【大意】
『序(慈遠禅師)
はじめから見失ってはいないのにどうして探し求める必要があろう。もともと覚めているその目を反らせるから、そこに隔てが生じるので、塵埃に立ち向かっている内に牛を見失ってしまう。
故郷はますます遠ざかって、別れ道でにわかに間違える、得失の分別が火のように燃え上がり、よしあしの思いが、鋒(つるぎ)の穂先のように鋭く起こる。
頌(廓庵禅師=十牛図の作者)
あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く、
山は遥かで、行く手はまだまだ遠い。
すっかり疲れ果てて、牛の手がかりもつかめず、楓の枝で鳴く、遅れ蝉の声がするばかり。』
序と頌がついているが、十牛図の説明の本体は頌の方。
廓庵のコメントのほうが、直接牛の説明をしているのに対し、慈遠のコメントは、禅の専門道場での修行者向けに書かれているためか、牛それ自体の説明はなく、修行者の心得のような部分があり、かえってわかりにくくしているところがある。
だからどちらかというと廓庵の頌を見てもらったほうがよいように思う。
一人で地図もない見知らぬ山に入っていく。その山のことは、釈迦の本にもイエス・キリストの本にも出ていない山だ。本来の自分の山だからである。
探索に疲れ果てて、やめようかと思った時に、耳に入る蝉の声が、その先の道を示すインスピレーションになる。
禅は、クンダリーニ・ヨーガのような段階型の冥想ではない。禅は、公案をやる看話禅と黙照枯坐の黙照禅に分類されるなどと言うが、禅問答の大半は、悟ったか悟らないかだけなので、その分類に意味があるとも思えない。公案で行き詰って大悟する場合もあろうし、黙照枯坐なる只管打坐で身心脱落することもあるだろう。要は、悟ったか悟らないかだけ。
つまり2段階だけなのである。
翻って十牛図のように十段階も立てるのは、「本来二段階だが」という注意書き付きで、そうしているということである。
【訓読】
『尋牛
序の一
従来失せず、何ぞ追尋を用いん、
背覚に由って以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。
家山漸(ますま)す遠く、岐路俄かに差(たご)う、
得失熾然として、是非蜂起す。
頌
忙忙として草を撥い去いて追尋す、
水闊(ひろ)く山遥かにして路更に深し。
力尽き神疲れて覓(もと)むるに処なし、
但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずるを。』