◎第三見牛
【大意】
『序
牛の声をたよりに発見したルートに入り、目にしたその場で根源に出会う。
六つの感覚の各々が、まごう事なく、日常の動きの一つ一つがそれを現してくる。水に含まれている塩分や絵の具の中の膠(にかわ)のようなものだ。目をかっと見開けば、まさしく他のものではない。
頌
鶯は樹上に声を上げ続け、日光は暖かく、風は穏やかで、岸の柳は青い。ほかならぬこの場所より、他に逃れる場所はない、威風りんりんたる牛の角は、画にもかけない風格がある。』
第三図にして早くも絶対なるものを見てしまった。仏をちら見することを、禅では見性(けんしょう)というが、日本でも見性できた坊さんは数えるほどしかいないはず。全然簡単ではない。
鶯の声が聞こえ、春光は暖かく、春風は穏やかで、岸の柳は青い。これほどありのままに、すべてのものを感じ取ることができれば、立派な牛の角ははっきりと見えすぎるほどである。
何かの拍子に、あるいは老師のよき指導を得て、あるいは様々な工夫の末に、牛への手がかりを発見し、牛であるアートマン第六身体=仏=本来の自己を見る。
牛(仏、神、宇宙意識)を見る手法というのは、必ずしも丹田禅(公案と一つのマントラで丹田を作る禅)である必要はなく、只管打坐でもクンダリーニ・ヨーガでも、ラーマクリシュナのようなバクティ・ヨーガ(神と一体であるという信愛に溶け込むタイプ)などいくらでもある。
中国に、禅と念仏を一所に修行する禅浄双修と呼ばれる修行法があったが、公案でのムー(無)やセキシュ(隻手)の代わりに南無阿弥陀仏で丹田を作るというアイディアだったようだが、これもありだろうとは思う。
なお、見性、見仏は、チラ見であり、glance(一瞥)とも訳される場合がある。
しかし臨済義玄(臨済宗の開祖)に象徴される、『絶対なるもの』から直接喝を食らわすというような手法が主流になったのは、その後の禅の正当性を守ったのではあるまいか。つまり禅は、牛を発見するだけのためのものではなかったのである。
【訓読】
『第三 見牛
序の三
声より得入し、見る処に源に逢う、
六根門著著差(たが)うことなく、動用中頭頭顕露す。
水中の塩味、色裏の膠青、
眉毛を貶上(さつじょう)すれば是れ他物に非ず。
頌
黄鷺枝上 一声声、
日暖かに風和して岸柳青し。
只だ此れ更に廻避する処なし、
森森たる頭角 画(えが)けども成り難し。』