◎人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹
笹目秀和は、シベリア抑留列車がハイラル駅(現在の中国内モンゴル自治区)の停車中にソ連兵の警備をかいくぐって一旦脱走に成功したが、自分一人だけが楽な思いをすることをあきらめて、なんと自分で列車に戻っていった。
さて1945年日本に帰還する列車だとソ連に騙されて、笹目秀和は興安駅からシベリア抑留列車に乗車。列車がハイラル駅に入ったことで、日本に向かっていないことに気がついた。そこでハイラル在の20年来の友人の中国人を頼って、ハイラル駅で脱走しようと笹目秀和はチャンスをうかがっていた。
列車はハイラル駅に停車した。
『やがて扉の外鍵を外し”オボルニー"と、警備兵が叫んで、次々に各貨車を同じようにして過ぎてゆく。あッ! これは警備兵の多くは寝ていて、一人が各貨車を回って鍵を外しているんだな、と察したのである。
チャンス!
一刻というよりも一瞬を争うかもしれない。あの警備兵が、五十車輛の鍵を外して帰って来るまでに、われは駅構内を脱出してしまわなければと、異常な決意と緊張を以て立ち上がった。そして、扉を自ら排して地上に降りたのは吾輩が第一号だった。見渡せばまごうかたなくハイラルだった。警備兵の影もほとんど見当たらず幸いなことには駅構内に幾人かの人員が動いていた。
好機!逸すべからず!と胸に問い腹に応えて、貨車の先頭の方に歩いてゆき、一旦車輛下をくぐって、左方のプラットホームに出て様子を見る。警備兵らしき者はいないのを見定め、素早くホームから柵外に出た。走ってはいけないと、われ自ら戒めながら、いかにも自然らしく悠然と大股に歩を進めて、二十年来往復をして、勝手知ったハイラル街の城内への路を歩いた。
だれ一人歩いている者もなく、時折ロシア人街の犬に吠えられたが、犬など眼中になく一路目的の玄君の家にたどり着いた。
かつての経験から、この間の時間は約十五分かかったと思う。
遂に天は脱出を許され、保護し賜わったことを感謝し、さて玄君が果たしておってくれるだろうか。拳を上げて戸を叩こうとしたとき、その一瞬である・・・・・"ハッハッハアー・・・"と、高らかな笑声が耳に入った。いや耳じゃない、腹に聞こえたのだ。今のは人間の笑いではなかった。聞き覚えのある声だった"神仙だ、疏勒神仙のお声だ"
さあて神仙!と問い返すとまた、"ハッハッハアー・・・・"と、一段と高らかな声が聞こえてきたのであった。
と同時に、私の腹には、万言を以て説明された真理が、一遍に解明されたのであった。
こうした場面を、文字を以て説明を求められても、一般の読者には何を語っているのか、さっぱりわからないであろう。しかし、幼児がおいたをしないまでも、何かを自己意志に任せて手をつけようとしたとき、母親が"コラッ"と鋭い声で叱ったとする。フト幼児は母親の目を見ただけで、母は何を言っているかがわかるように神仙の教えを受けた小生にとって"ハッハッハアー・・・"と、お笑いになっただけで、神仙は何をいわれたかが一瞬にして悟得できたのであった。それを言葉のうえに現わしてみれば、次のようなことであった。
"大道がこの世の中に行なわれるようになれば、天が下に存在するところのもの一切は、天上界にまします主宰神に帰し、一般人にとっては公有物となり、これはだれのものであり、あれは彼のものだというような私有観は無くなる。むろんここは東の国であり、かしこは西国人の居住地で、勝手気儘な出入はできませんよ、といったことはなくなり、大きくは全大宇宙が存在し、小さくは虫魚の別があるように思われるが、本来の性は、三千大千世界をしろしめす主神の性に帰してしまうもので同じなんだ。共産主義は、その天理を人為的に行なったもので幾多の矛盾が生じてくる。その実情と観察と体験がなければ、次代の経綸に携わることはできない。汝!新たな使命の第一歩だ、艱難を避けるべきではないぞ! " ハッハッハアー・・・・・"ということである。
ハッと気がついた私は、拳を下ろして急ぎハイラル駅への路を引返したのであった。このときほど、息せき切って速度を速めたことはないが、決して走りはしなかった。駅に近づいて行くと、輸送貨車は、水の補給に機関車がタンク塔の前に止まっていて、首の無い貨車は眠れるごとくに静かだった。』
神仙の寵児 8 煉獄篇/笹目秀和/国書刊行会P142-143から引用』
友人である玄君宅のドアを叩こうとする刹那、笹目秀和は、自らの天命を生きる覚悟を疏勒神仙のテレパシーにより気づかされた。
その逆転には一瞬の躊躇もなかった。
もっともこれは大悟でも小悟でもないが、どんな人でも、一生を左右する分かれ道を、不本意ながらあるいは内心納得して、見かけはネガティブな選択をせざるを得ないケースにぶちあたることがあると思う。人生では、本来の生き方を進めるためにそういうめぐり合わせや選択の機会はあるものだ。人間である以上、天命の一つの重要な分岐ポイントである。
笹目秀和の場合、それが求道と連動しており、北東アジアのカルマ、日本のカルマを消化するためにそれは公的にも必要なものだったのだろう。
老子は、個人の持つ天命を“名”とよび、大道を履みながらも“名”という個人的天命を生きるのが人間の姿であると見たが、その後11年におよぶシベリア抑留生活が待っていることも知らぬ笹目秀和は、恐れずその道に進むことができた。
この逸話で思い出されるのは、呂洞賓の一件である。
呂洞賓の10のテストのテスト6:
呂洞賓が外出して家に帰った時、家の財産はすべて盗賊に盗まれ、食糧さえも無くなっていた。だが、呂洞賓は怒りの色も見せず、いつものように耕作をはじめた。ある日、畑を耕していると、鍬の下から数十枚の金塊を掘り出した。しかし、呂洞賓は一枚も取らずに、そのまま金塊を埋めた。
ハイラルでの笹目秀和も、黄金を埋め戻した呂洞賓も、無私、無欲では説明できない。人間である以上、誰もがどうしようもなさを抱えている。どうしようもなさとは、天国的なものでは納得できないし、かといって地獄に落ちるのもいやだが、自分では手のつけようがない。だが、その人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹であって、ニルヴァーナにつながっている。
その徹見がないとそういう行動はとれない。
ところが、すべての現代人は、その徹見を持ち、冥想により神仏を知って生きることを求められている。
『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、
夢幻虚仮でないものは一つもなく、
あらゆる生々転変する夢幻虚仮が.
無数の人間ドラマを織りなす。』
(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)