永泰元年7月
[旧]辛卯朔,淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。制以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
[新]辛卯,平盧、淄青兵馬使李懷玉逐其節度使侯希逸。
[通]平盧節度使侯希逸鎮淄青,好游畋,營塔寺,軍州苦之。兵馬使懷玉得衆心,希逸忌之,因事解其軍職。希逸與巫宿于城外,軍士閉門不納,奉懷玉為帥。希逸奔滑州上表待罪,詔赦之,召還京師。壬辰,以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,以懷玉知留後,賜名正己。
[背景]
安史の乱に遼東半島にあった平盧軍節度使は唐朝方に付き抗戦しました。しかし孤立に苦しみ、節度使侯希逸等は營州を棄てて全軍渤海湾を渡り山東半島に移動しました。そこで前に派遣していた田神功や李忠臣等の部隊の出迎えを受けて寶應元年5月淄青平盧節度使となり拠点を設けることができました。このころの平盧軍は諸将の連合体であり侯希逸はあくまで代表という立場でしたが、やがて専権化し、まだまだ生活が安定しない兵士や家族の不満がつのりました。そして副将の高句麗人李懷玉[賜名後は正己]等は蜂起し希逸を逐いました。
[結果]
唐朝は鎮圧する能力が無く、結果を追認するしかありません。形式的に親王[鄭王]を節度大使として任命し、懷玉を留後とするという策で糊塗しました。鄭王は赴任せず、まもなく懷玉が節度使となります。逐われた侯希逸は功績があるので京師で引退し、後に司空に任ぜられます。
[旧]辛卯朔,淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。制以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
[新]辛卯,平盧、淄青兵馬使李懷玉逐其節度使侯希逸。
[通]平盧節度使侯希逸鎮淄青,好游畋,營塔寺,軍州苦之。兵馬使懷玉得衆心,希逸忌之,因事解其軍職。希逸與巫宿于城外,軍士閉門不納,奉懷玉為帥。希逸奔滑州上表待罪,詔赦之,召還京師。壬辰,以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,以懷玉知留後,賜名正己。
[背景]
安史の乱に遼東半島にあった平盧軍節度使は唐朝方に付き抗戦しました。しかし孤立に苦しみ、節度使侯希逸等は營州を棄てて全軍渤海湾を渡り山東半島に移動しました。そこで前に派遣していた田神功や李忠臣等の部隊の出迎えを受けて寶應元年5月淄青平盧節度使となり拠点を設けることができました。このころの平盧軍は諸将の連合体であり侯希逸はあくまで代表という立場でしたが、やがて専権化し、まだまだ生活が安定しない兵士や家族の不満がつのりました。そして副将の高句麗人李懷玉[賜名後は正己]等は蜂起し希逸を逐いました。
[結果]
唐朝は鎮圧する能力が無く、結果を追認するしかありません。形式的に親王[鄭王]を節度大使として任命し、懷玉を留後とするという策で糊塗しました。鄭王は赴任せず、まもなく懷玉が節度使となります。逐われた侯希逸は功績があるので京師で引退し、後に司空に任ぜられます。