恵昭太子の死後、後継の皇太子選定は紛糾します。有力な宦官吐突承璀は澧王惲を推薦します、能力的にはこちらが高かったようですが、結局憲宗は父が郭子儀の子曖、母が昇平公主である懿安皇后の子遂王恒[穆宗]を選びます。穆宗は無能であり、唐朝の中興を成し遂げた名君の憲宗は廃することも考えていますが、元和15年宦官により突然殺されたことにより即位することができました。即位時に澧王と吐突承璀は粛清されました。
憲宗の元和4年3月、長子の鄧王寧が17歳で皇太子となります。6年閏12月に亡くなります。この人に関しては善悪ともなんの情報もありません。
順宗は即位時にすでに重病でしたが、長い皇太子時代に形成された側近の少壮官僚は、停滞した德宗の政治を変えられると始動し始めました。側近の王叔文を中心として次々に改革がなされましたが、当然宦官を中心とした旧勢力は抵抗勢力となります。それでも順宗が健康なら排除できたでしょうが、既に口もきけないほどの病身でした。三月旧勢力は長子の廣陵王淳を押し立てて立太子し、七月ついに順宗を退位させて即位させます[憲宗]。若手官僚は左遷追放され改革は頓挫してしまいました。
しかし憲宗は英明でしたので、やがて唐朝は覇権回復の道に進みますが、宦官重視の傾向は強まり弊害が増えていきます。
しかし憲宗は英明でしたので、やがて唐朝は覇権回復の道に進みますが、宦官重視の傾向は強まり弊害が増えていきます。