文宗は生真面目で好学、自分を擁立してくれた宦官達を嫌っていました。彼はまず皇太子として敬宗の長男晉王普をかんがえていたのですが太和二
年夭折してしまいました。そこで太和六年自分の子魯王永を立てました。太和九年文宗は宦官排斥に失敗[甘露の変]して、実権を失います。そして鬱々としながら愛妾楊賢妃の讒言を真に受け、太子を疑い出します。また太子もまた宦官にそそのかされて遊興を好み、質素好学な文宗の気に入らず、ついに開成三年これを廃そうとします。しかし諌官達官僚が激しく反対したため近臣を処罰するだけで中止しますが、なぜか太子は帰邸後頓死します。自殺か毒殺かは不明ですが、捜査も行われなかったことから大物宦官が関与しているとみられます。
年夭折してしまいました。そこで太和六年自分の子魯王永を立てました。太和九年文宗は宦官排斥に失敗[甘露の変]して、実権を失います。そして鬱々としながら愛妾楊賢妃の讒言を真に受け、太子を疑い出します。また太子もまた宦官にそそのかされて遊興を好み、質素好学な文宗の気に入らず、ついに開成三年これを廃そうとします。しかし諌官達官僚が激しく反対したため近臣を処罰するだけで中止しますが、なぜか太子は帰邸後頓死します。自殺か毒殺かは不明ですが、捜査も行われなかったことから大物宦官が関与しているとみられます。