荘恪太子の死後、開成4年10月すでに健康を害していた文宗は、自分の子ではなく敬宗の少子陳王成美を皇太子に立てます。宦官勢力の自分への憎しみを感じていたのでしょうか。荘恪の乱行が周囲の宦官達の陰謀ではないかと疑い、自省の念にかられていたのでしょう。そして自分の信頼する宦官劉弘逸・薛季陵と宰相楊嗣復と李玨が皇太子を補佐してくれることを望んでいました。しかし開成5年正月文宗が崩御すると、軍權を握る幹部宦官仇士良、魚弘志は穆宗第五子潁王瀍を擁立[武宗]し、成美や安王溶、賢妃楊氏を殺害しました。潁王瀍は一瞬皇太弟ということになります。
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