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嚴礪伝
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礪、字は元明。
山西節度使震の從祖弟。
僧侶であったが、仕官して玄武尉。
震に仕えて節度都虞候。性格は輕躁で画策が多かった。
興元元年.德宗皇帝が山西に避難していた時に供給に功績があり、興州刺史兼監察御史.興元都虞候に至る。
貞元十五年四月.震が卒した後留後となり、後任に推薦され、諌官達は反対だったが皇帝は押し切り、
七月.興元尹兼御史大夫山西節度支度營田觀察使。
礪は収斂に勤め、鳳州刺史馬勳を陥れた。
加檢校禮部尚書。
十六年十月.誣告し流人崔河圖を殺す。
元和元年二月.西川劉闢に際して、礪は劍州を復し、刺史文德昭を斬る。
三月.梓州を復す。
六月.闢兵を綿州石碑谷に破る。
十月.劍南東川節度副大使知節度事管內支度營田觀察處置靜戎軍等使光祿大夫檢校左僕射使持節梓州諸軍事兼梓州刺史禦史大夫鄭國公。
民の田宅を収奪し、規定の税額をはるかに超える徴税を行った。
元和四年三月.鎭に卒した、贈司空。
死後その乱政が暴かれたが追罰はされなかった。
皇帝には気に入られていたが官界の評判は極めて悪かった。
嚴礪伝
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礪、字は元明。
山西節度使震の從祖弟。
僧侶であったが、仕官して玄武尉。
震に仕えて節度都虞候。性格は輕躁で画策が多かった。
興元元年.德宗皇帝が山西に避難していた時に供給に功績があり、興州刺史兼監察御史.興元都虞候に至る。
貞元十五年四月.震が卒した後留後となり、後任に推薦され、諌官達は反対だったが皇帝は押し切り、
七月.興元尹兼御史大夫山西節度支度營田觀察使。
礪は収斂に勤め、鳳州刺史馬勳を陥れた。
加檢校禮部尚書。
十六年十月.誣告し流人崔河圖を殺す。
元和元年二月.西川劉闢に際して、礪は劍州を復し、刺史文德昭を斬る。
三月.梓州を復す。
六月.闢兵を綿州石碑谷に破る。
十月.劍南東川節度副大使知節度事管內支度營田觀察處置靜戎軍等使光祿大夫檢校左僕射使持節梓州諸軍事兼梓州刺史禦史大夫鄭國公。
民の田宅を収奪し、規定の税額をはるかに超える徴税を行った。
元和四年三月.鎭に卒した、贈司空。
死後その乱政が暴かれたが追罰はされなかった。
皇帝には気に入られていたが官界の評判は極めて悪かった。