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趙昌伝
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昌、字は洪祚。天水の人。祖不器,父居貞。
昭義節度[李承昭]に仕え、虔州刺史に至る。
貞元七年七月.安南で地元の豪族杜英翰が叛乱し、都護高正平が死んだ後を継ぎ、安南都護経略招討使。
十三年間ですっかり蠻族を慰撫した。
加御史大夫。
貞元十八年五月.七十二歳を超え足疾により辞して國子祭酒となるが、後任の裴泰が軍乱で逐われ、
二十年三月.復帰。彼がくると軍乱はただちに治まった。
憲宗初,加檢校工部尚書。
元和元年三月/四月.檢校戶部尚書廣州刺史嶺南節度使。良政。
三年四月.檢校吏部尙書荊南節度使。荊門を修築。
四年.太子賓客。
工部尚書兼大理卿。
大理卿はまもなく辞す。
六年十一月.檢校兵部尚書華州刺史潼関防禦使。
八十余歳.憲宗皇帝はその壮健に驚き健康術を聞いた。
九年.太子少保。
九年.卒、年八十五、贈揚州大都督,諡曰成。
趙昌伝
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昌、字は洪祚。天水の人。祖不器,父居貞。
昭義節度[李承昭]に仕え、虔州刺史に至る。
貞元七年七月.安南で地元の豪族杜英翰が叛乱し、都護高正平が死んだ後を継ぎ、安南都護経略招討使。
十三年間ですっかり蠻族を慰撫した。
加御史大夫。
貞元十八年五月.七十二歳を超え足疾により辞して國子祭酒となるが、後任の裴泰が軍乱で逐われ、
二十年三月.復帰。彼がくると軍乱はただちに治まった。
憲宗初,加檢校工部尚書。
元和元年三月/四月.檢校戶部尚書廣州刺史嶺南節度使。良政。
三年四月.檢校吏部尙書荊南節度使。荊門を修築。
四年.太子賓客。
工部尚書兼大理卿。
大理卿はまもなく辞す。
六年十一月.檢校兵部尚書華州刺史潼関防禦使。
八十余歳.憲宗皇帝はその壮健に驚き健康術を聞いた。
九年.太子少保。
九年.卒、年八十五、贈揚州大都督,諡曰成。