武宗は廃仏政策により仏教の影響を受けた歴史家に誹謗されていますが、宰相李德裕を用いて唐朝の権威を高めました。しかし唐朝の悪い習慣である道教に凝り金丹などを服用したため頓死しました。武宗の子は幼く、宦官の神策軍中尉馬元贄は憲宗の子光王怡を擁立しました。武宗からみると「叔父」にあたり「皇太叔」という不思議なことになります。光王は表面上愚鈍にみえたため、宦官達は自由に操作できると考えたのかもしれません。そして傍系からの即位のため、自分達に恩義を持ってもらえると思ったのでしょう。ところが光王[宣宗]は「小太宗」と言われる名君でした。唐朝の国力も皇帝の実権も小さくはなっていましたが、国政を掌握しようと努力しました。唐朝は宣宗の死で終わり、あとは付け足しだと言われています。もちろん「皇太叔」は一瞬でした。
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