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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

浙江東道都団練観察使 浙東節度使 その2

2012-06-05 10:04:11 | Weblog
・政の後も浙東は財務官僚の赴任地となった。
・現地から収奪し京師に送るという不毛の統治が続き、海賊が横行し、それに対して貧弱で待遇の悪い軍
が対応するという状況であり。貞元14年には明州將の栗鍠が刺史盧雲を殺して反した。
・貞元15年には鍠は誅されたが、状況は変化しなかった。
・大中9年將士を虐待し軍乱により観察使李訥が逐われた。この後江南・嶺南道に連鎖的に軍乱が発生した。
・大中13年には賊帥裘甫が蜂起し、官軍を破り浙東全域が騒乱に陥った。
・財源の地を失うことを恐れた唐朝は王式に大軍を附けて派遣し咸通元年甫を誅することに成功した。
・この後、式は派遣軍を率いて武寧の驕兵を誅することになる。
・乾符5年流賊黄巣軍は越州を陥し、観察使崔璆[後黄巣の宰相となる]を捕らえて去った。
正史には「克越州」と記載してあるが掠奪が終了したため放棄しただけである。
巢は浙東各地を荒らし、福建から嶺南[廣州]へと去った。浙西は歴戦の將高駢が赴任したので敬遠した。
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浙江東道都団練観察使 浙東節度使 その1

2012-06-04 10:43:03 | Weblog
・浙江道を東西にわけ、蘇州・潤州など穀倉地帯を浙西、福建に続く起伏の多い海岸地帯を浙東とする。
福建道のような貧困地帯ではないが山岳も多い地域である。常に越州が使府である。
・乾元元年[758年]浙西と同時に越州に浙江東道節度使が置かれ越睦衢婺台明處温八州を領した。
文官の節度使である。
・寶應元年[762年]台州の賊帥袁晁が自立して皇帝と称し浙東諸州を陥した。唐朝は財源である浙江のことであり、
副元帥李光弼麾下薛兼訓の軍を南下させたが、水軍と連携した反乱軍に苦戦し、廣徳元年[763年]までかかって平定した。
・大暦14年[779年]財務官僚韓滉が浙西・浙東・宣歙を併領し、建中年間の河北・關内の戦乱の軍費を供給した。
・建中2[781年]その功績により滉は使相・鎭海軍節度使となった。
・貞元3年[787年]滉が卒すると、強大な鎭海軍は三分され浙東には都団練観察使が置かれ、皇甫政が赴任した。
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義成軍節度使 宣義軍節度使 その3

2012-06-03 10:54:01 | Weblog
・耽は牙軍を鎭撫することに成功し軍の状況は安定した。
・貞元15~16年[799-800年]節度使姚南仲と監軍薛盈珍の関係が紛糾し両者が上訴する事件が起こった。
・元和年間[806-820年]以降安定した方鎭として推移し、主に武官の、
太和開成年間には文官の赴任地になっていった。
・唐末中和元年[881年]黄巣に陥された京師を回復するため宰相王鐸は義成を拠点として、
河中王重榮と共に努力した。
・中和4年[884年]京師が回復されると田令孜等宦官勢力は鐸を義昌[滄景]に追い遣ったが、
途次現任の滄景盧彦威に買収された魏博兵に襲われてされた。
・後任の安師儒は軍の統制がとれず、光啓2年[886年]隣鎭宣武の朱全忠に乗っ取られた。
・その後は全忠の支配下となり留後が交替し大順元年[890年]には宣義軍と改號された。
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永平節度使 義成軍節度使 その2

2012-06-02 11:22:16 | Weblog
・建中3年10月[782年]淮西李希烈が反すると、永平は北に魏博田悦・東に淄青李納
の三方向からの攻撃を受けることになった。
・そのため宋亳穎三州を宣武軍として分離し、劉玄佐を帥として主に淄青に当たらせ、
東都に哥舒曜を置いて淮西の北進を防がせた。魏博はうち続く敗戦によって南下する余力はなかった。
・勇将希烈は猛烈に北進し唐軍を各所に破り、朱の乱により支援が得られない勉は、
建中4年[783年]12月汴州を棄てて奔った。
・希烈はその後鄭・滑州をも得て東都に迫ったが、玄佐の抵抗に遭って停滞した。
・興元元年[784年]朱の乱が平定され、体勢を立て直した唐軍は陳州に希烈を破り、
一旦希烈に降った滑州刺史李澄は唐朝に復帰し汴滑節度使となった[汴州は回復されていない]。
・貞元元年[785年]希烈は軍を退き、澄は滑州刺史,鄭滑許節度使となり義成軍節度と號した。
汴州は玄佐に与えられた。
・貞元2年[786年]澄は卒し、子克寧が自立しようとしたが、唐朝は東都留守賈耽を送り込むことに成功した。
・7月許州を分離して陳許節度使[忠武軍]を置いた。

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永平節度使 義成軍節度使 その1

2012-06-01 10:03:28 | Weblog
・滑州は東都の東、汴州の北に位置し、黄河を隔てて衛州と対する。
・史思明の乱、乾元2年[759年]滑州刺史許叔冀が3月滑濮節度、5月汴滑節度使に任ぜられたが、9月には思明に降り、実体はなくなった。
・上元2年[761年]5月史朝義將令狐彰は、いち早く滑州を以って降り、滑衛節度使[治滑州領州滑衛相魏貝六州]に任ぜられた。
・廣元年[763年]所管が整理され、滑・潁・亳・の四州となったが、地理的関係から考えると分散していて疑問が多い。
・彰は他の降將とは違い、自立はしているが貢納は収め、防秋軍の拠出や軍費分担を行うなど唐朝の指示に従順であった。
そのため大暦4年[769年]には陳州ょ増領され、7年には永平軍と賜號された。
・大暦8年[773年]彰はその死に際して子供には継承させず、所領を唐朝に奉還した。宰相格の李勉が特派され回収することに成功した。
・勉は大暦10年[775年]の田承嗣の乱には征討軍の都統となり、11年李靈耀の乱にも参加したが、文官であるため戦闘には弱かった。
・その後永平軍は宋・泗州をくわえ、大暦14年[779年]李忠臣が李希烈に逐われると汴州[滑州より移治]も管轄となり、
河南の大藩となっていった。
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