字は虛巳、大暦十四年[779]に生まれた。
曾祖晟、祖希倩は軍人であったが、父庭は不明。
本来は王氏だったが、祖母梁氏の養子となり梁姓。
貞元十四年[798]宦官となり、学識はあったようで、
二十一年[805]に任官、征事郎[正八品下]から內府局令充學士院使となる。
元和初には宣義郎[從七品下]掖庭局令に進み、四年[809]に朝議大夫[正五品下]內常侍となる。
さらに正議大夫[文官.正四品上]枢密使となり文書機密を扱った。
十一年[816]に喪免となるがすぐ奪情起復し、忠武將軍[武官.正四品上]知內侍省事となる。
ここで文官としての立場から武官[神策軍]に移行したことになる。
冬,淮西節度使吳元濟征討に際して、宰相裴度のもと監軍となり、雲麾將軍[従三品上]充行營招討使として活動した。
十二年[817]10月,吳元濟が平定されると、憲宗は守謙を派遣し、元濟の婦女や珍寶を捜させ、また元濟舊將の処置もさせた。
十三年[818]冠軍大將軍[正三品上]右監門衛上將軍右神策軍護軍中尉[左は吐突承璀]につき、軍權を握った。
十五年[820]馬進潭、梁守謙、魏弘簡等とともに高位の格式である門戟を立てることが許され、驃騎大將軍[從一品]兼右武衛上將軍となった。宦官達の家格が大きく上がったことになる。
正月、陳弘志と王守澄は中和殿で憲宗を弑逆し崩御したと宣し、左軍中尉吐突承璀と澧王をも殺した。これは皇太子の地位が危うくなった太子[穆宗]と外戚郭家との連携によると考えられる。右軍中尉守謙や韋元素等もその謀議に参与していた。
長慶元年[821]功績により安定郡開國公に封ぜられた。
十月、憲宗崩御の混乱を狙って吐蕃が侵攻してきた。守謙は充左右神策京西京北行營都監として神策軍を率いて防衛に当たった。穆宗即位時に神策軍を宥めるために莫大な賞賜が与えられ、それを知った外鎮の兵士達は不満で出征を拒み騒動を起こすこともあったが、吐蕃の侵攻はあくまで様子見であったたため大事にはいたらなかった。
二年[822]恩賞として邠國公食邑三千戶となった。
四年[824]開府儀同三司[文官.從一品]兼右衛上將軍に進んだ。
穆宗はこの年頓死し、その子幼少の敬宗が即位した。これが徹底した愚物であり、政治は宰相李逢吉が専断するしかなく、宦官達は敬宗の愚行に振り回された。
寶曆二年[826]12月、レスリングとポロ競技にしか関心がなく、気に入らないと側近にも暴力を振るい厳罰を与える敬宗に辟易した宦官劉克明等は敬宗を殺害し、絳王悟を擁立しようとした。
しかしこれは仲間うちだけの謀議であったので、宰相裴度や宦官主流派の中尉守謙・樞密使王守澄等は真面目な穆宗の弟江王涵[文宗]を擁立し、克明や絳王を誅殺した。
太和元年[827]3月、病身であった守謙は致仕し、樞密使王守澄に右軍中尉を譲った。
10月、守謙は私第で急死した。49才であった。揚州大都督が贈られた。