唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

取りなし  [武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]

2025-03-11 10:00:00 | Weblog

取りなし    [武人李忠臣が辛京杲の刑死を救う]
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河東節度使辛雲京の従弟京杲は勇敢で軍功があり湖南観察使となっていました。

しかし強暴で貪欲であり、しばしば現地の豪族ともめて争乱を起こしていました。

湖南は統治困難な地域なので代宗皇帝はおおめにみていましたが、京杲は贈賄・収賄を重ね、私的に部下を殺害する事件も起こしていました。

即位した德宗皇帝は目に余るとして死刑に処するつもりでいました。

建中元年のある朝、武将出身で宰相格の李忠臣が特に拝謁を求めてきました。

皇帝は忠臣が雲京と親しいことを知っていたので、さては助命を嘆願しにきたなと察していましたが、代宗時代の姑息さを引き締める方針を堅持しているのではねつけるつもりでした。
しかし忠臣はいかにも武臣らしく訥々と話し続け、いくらたっても京杲の事を持ち出す様子はありませんでした。

德宗のほうがじれてきて「京杲は許し難い奴である」と先制しました。

ところが忠臣は「そうです京杲は当然死刑。早く刑を執行すべきです」と答えたのです。

意外に思った德宗が黙まりこくると。

忠臣は続けて「京杲の父は安史の乱に忠誠をつくし戦死しました。兄弟達も多くは国事に死にました。雲京の功績はご存じの通りです。名誉ある辛家の中で、奴だけが生き残り恥をさらしています。はやく処刑して家を絶やしてしまうべきです」と言いました。

德宗は黙然とし、やがて「死刑はやめて左遷にしよう」と宣告しました。

忠臣は深く拝してゆっくりと退出していきました。

*******背景*******
湖南は蠻族の豪族達が割拠する難地で、大暦五年には観察使崔瓘が軍乱により殺害されてしまいました。軍乱を鎮圧するために派遣されたのが軍人の京杲です、鎮圧には成功しましたが、貪欲なため豪族達の私財を奪おうとして王國良の乱を引き起こしてしまいました。
李忠臣は平盧軍出身の軍人で、安史の乱に活躍し、その後も唐朝側に立って転戦しました。勇敢で威略があり淮西節度使となりました。
反面軍紀には甘く専横な所もありました。節度使としの統制も甘く、好色で部下の妻女達を姦したため族子の希烈に逐われ入朝しました。
しかし今までの功績を評価されて検校司空同平章事として宰相格に任ぜられています。宰相といっても執政はしない名誉職です。
德宗皇帝は前年の大暦十四年に即位し、代宗の弛緩した政治を引き締めるように施策をうっていた途次であつたのです。京杲は閑職の王傳に遷されました。


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