いきなり余談ですが、ブログをやっていて本当に良かったと思うのが、
今まで縁もゆかりもなかった方々とコメントを通じて語り合えることです。
石の上にも三年と申しますが、二年半もの間、途中ブランクがあったとはいえ
毎日のようにアップし続けていると、それなりに見てくれる方も増えます。
閲覧数が増えるとそれだけ危険も増えてくるのがネットの怖さだと肝に銘じているので、
決してアクセスアップのためのランキング登録はしませんが、
それでもいつの間にかgooブログ総数1,780288(本日付)の中の
極めて上位(全体数から見て、ですが)にランキングされるようになりました。
しかしそれも一概に喜ばしいとだけは言えない面があります。
エリス中尉、基本的に性善説論者なので、このブログに訪れる方は
コメントを下さる常連の方ならずとも暖かい目で見て下さっていると信じたいのですが、
どうも中にはそうでない人も混入しているようです。
最近どういう目的かは存じませんが、
当ブログ記事のURLをインターネット掲示板にばらまいた人がいました。
そのせいで一時アクセス数が一気に夢のトップ100入りか?という状態に。
ただ残念ながらその方がせっせと貼っていたのはブランク・ページだったので(失笑)
賑わったのは当ブログへのアクセス数だけ。
この方の目論見(たぶん)のように「ブログ炎上」ということは全く起こらず、
コメント欄はいつも通り平和でした。
どちらにしても、この方にはわざわざ手間暇掛けて当ブログのステマをしていただき、
本当にその労力に対し感謝の念に堪えません。
でも、どうせなら来られた方は出来ればブランクページだけじゃなく、
ちゃんと記事も読んでいって頂きたいものだと思います。
さて、というわけで世の中には、とくにネットの中には、例えばこの方のような
匿名世界のヘドロのような部分を這いずる魑魅魍魎も横溢するわけですが、
逆に言うと、「悪」のみならず、「善」もむしろ通常の社会よりは増幅され
抽出されて存在する、とわたくし思っております。
社会通念的な付き合いからは決して生まれない交歓もまたそこにはあり、
ときにはそれが限りなく尊い、純粋なものであることも少なくありません。
そんな大仰なことではなくとも、当ブログに頂くコメントはときとして(大抵?)
ブログ主をして刮目させ、考えさせられ、時には大笑いさせられ・・・。
或いは「海軍リス戦隊」のように、ブログ主が自らその主筆の座を
喜んであけ渡すような、あっぱれな原稿も送られてきます。
そして、何度かそうさせて頂いたように、コメント欄ではなく本欄で読んで頂きたい、
と言った貴重なお話をお寄せ下さるに至っては、もうありがたくて涙が出ます。
というわけで、今日もそういったコメントをここでご紹介させて頂きましょう。
先日、銀座「ヨーソロ」において、生エリス中尉の軍歌「愛国行進曲」を
耳にした唯一の読者がおられます。
たまたまそのときにそこにおられて、その後インターネットの世界で邂逅しました。
こんなこともネット以前の世界ではありえなかったことでしょう。
そのポチ三水からこんなコメントを頂きました。
「筑波山よーそろ」
エリス中尉(海軍では殿は付けないのですね)
ポチ三水は、郷里の四国からのお客様をご案内して
久しぶりに筑波山に行ってまいりました。
百名山中最低の877mながら、眼下の霞ヶ浦からぐるっと360度の眺めは
なかなかのものですよ。
なお2番目は開聞岳の922mと、飛行機にご縁のある山が続きます。
泊まりは筑波山中腹にある老舗、江戸屋さん。
ここの大女将さんは90歳になりますが、
十九代ガマ口上名人として有名です。
さあさお立会い、に始まって、1枚が2枚、2枚が4枚.....の例のガマ口上を、
若々しいお声と太刀さばきで泊まり客に披露してくれました。
このあとです。
ポチ三水がお願いしたところ、快く、戦時中のお話を聞かせてくれました。
お話によると、戦時中、松根油を採るために予科練習生が大勢滞在していたそうです。
朝、前の石段をあがった広場で、予科練の歌(短調ですね!)を
1番だけ全員で合唱すると、さっと分かれて松の根を集め、加熱して油をとったそうです。
特攻のために移動する前の晩には、どんなに遠くからでも両親が来られて、
3人で布団を並べて寝ていかれたこと、
そういう時地元のお百姓さんたちは、乏しい白米を、あるいは魚を、
当時二十歳すぎだった大女将さんに託したことなど、お話し下さいました。
聞くにつれ、私たちは涙しました......。
霞ヶ浦の湖岸(阿見町)には、予科連記念館(雄翔館)と、
3年前にできた予科練平和記念館というのがあります。
筑波山と併せて、ぜひお寄りいただければと存じます。(もうご覧頂いたかもしれませんが)
以上、ポチ三水からのご報告でした。
ポチ三水さん、ありがとうございます。
以前にもお話しした、「空の少年兵」には、これから試験を受ける我が子を
「帰るからしっかり頑張るんだぞ」と励ます父の姿が映されています。
泣きそうな顔で何度も頷く少年。
この後かれは熾烈な予科練の試験に身を投じます。
どの顔もまだあどけなさを残した初々しさの中に、きりっとした目が、
かれらの覚悟を感じさせます。
帰る父親もいますが、中には試験中窓の外からずっと様子を覗う両親たちも。
このとき息子が予科練に受かることを心の底から念じ、合格の暁にはおそらく
息子と共に喜びに酔いしれたであろう両親たち。
その後、明日は死ぬ我が子を真ん中に、三人布団を並べて最後の夜を過ごすことになったとき、
かれらはこのときの天にも昇る気持ちをどのように思い出したのでしょうか。
しかし、この話にはそれだけではなく、我が国が戦わねばならなかった戦争の
どうしようもない現実と悲惨を象徴する部分があります。
「松根油(しょうこんゆ)」
松の切り株を乾溜(空気を絶って熱分解する)する方法で得られる油状液体です。
戦争末期の日本は、航空燃料の不足から、ついにこのようなものを使わざるを得ない
状態に陥っていました。
これはやはり南洋からの石油の補給が滞っていたドイツが松の油を使って
航空機を飛ばしているらしい、という(怪しげな)情報から始まった研究でした。
なんと当時の閣議で「松根油等緊急増産対策措置要綱」が決議されたといいますから、
日本の切羽詰まった状況は推して知るべし。
そもそも日本が戦争に突入した大きな原因が石油の輸入を禁じられたことです。
海軍の当初の思惑が外れて戦争が長期決戦になったとき、
日本の敗北はもう決まっていたのだと言えましょう。
この閣議決定により、松根油を収集するための大々的な動員がかけられました。
コメントの、女将さんの語る予科練の青年たちが松の根を集めた、というのも、
この動員の一環です。
「200本の松で航空機が一時間飛ぶ」
これが政府のうたい文句でした。
ずいぶんと効率の悪い燃料ですが、この文句で動員を掛けねばならないほど、
当時の日本は切羽詰まっていたのです。
こうやって集めに集めた松根油をさっそく乾溜し、燃料にしようとしましたが、
そもそもそれで航空機が飛ぶのかどうかすら、未知数であったと言います。
いかな技術立国であっても先立つものがなければ何も出来ないということです。
予科練習生だった杉山幸照氏の「海の歌声」には、谷田部航空隊で
やはりこの松根油を集めさせられた著者が
「こんなものを掘っていつまで続くものかなあ」
と嘆息したことが書かれています。
松根油は動員によってかなりの量が確保できましたが、相次ぐ工場への空襲で、
ろくに精製もできず、さらには戦後米軍がこの精製したものを未調整のまま
ジープに入れてみたところ、数日でエンジンが止まってしまったそうです。
このようなものを集めるために、空に憧れた若い彼らが駆り出されていた、という事実。
「空の少年兵」に描かれた、初めて空を飛ぶ彼らの喜びに満ちあふれた表情は、
すでにこのときの彼らからは失われていたことでしょう。
その哀切の響きに、時代に蹂躙された純粋な魂の叫びを聞くようで、
かれらがこのとき唱和した「若鷲の歌」の短調のメロディを思うと、
わたしはポチ三水がやはりそうしたように、涙してしまいました。