現在、鉄道の「上り」と「下り」は東京を中心に考えられており、東京に向かう線が「上り」で、東京から遠ざかる線は「下り」です。
日本の首都であり、政治経済の中心である東京を中心に考えると、全国どこにいても「上り」「下り」が判断できます。
ところが江戸時代は江戸幕府の将軍が政治を司っていたことから、江戸が政治の中心でした。
現在に当てはめれば、江戸が「上方」で大坂は「下方」のはずです。
しかし、当時、大坂や京都を中心とする畿内地方を「上方(かみがた)」と呼び、逆に江戸は「下方(したかた)」と呼ばれていました。
何故なのでしょうか?
「畿内が上方」
確かに、江戸時代に政治権力を握っていたのは将軍でしたが、日本は天皇中心の国です。
だから天皇が住む京都および畿内一帯を「上の方」、つまり「上方」として敬い、江戸のことはへりくだって「下方」と言っていました。
そこから、今でも大阪を「上方」と呼ぶようです。
「上方文化」
大坂や京都の人たちには、「幕府がある江戸ではなくて、天皇のいるこっちが上方だ」とする意識が強く、江戸への対抗意識もあったのでしょう。
その事によって、上方には独特の優れた文化が生まれました。
上方における文化は「上方文化」と呼ばれ、代表的なものに上方舞、上方歌、上方落語、上方漫才、上方歌舞伎、上方三味線、上方浮世絵、上方言葉、人形浄瑠璃文楽などがあります。
「上方舞」・・・日本舞踊の一種
「上方歌」・・・三味線音楽
「上方落語」・・・関西を舞台にした落語
「上方漫才」・・・関西の漫才のことです。
「上方歌舞伎」・・・京都・大坂で誕生し、独自に発展した歌舞伎
「上方浮世絵」・・・京阪地方で製作された版画で、役者などは描かず、あくまでも人間性のにじみ出る題材と描き方をした独特の芸術です。
「上方言葉」・・・関西弁の原型になった言葉のことです。
「人形浄瑠璃文楽」・・・語り手の太夫と三味線弾き、そして人形遣いの三者が一体となって表現する舞台芸術です。
こうして、「上方」には常に「下方」の江戸を意識した独特な文化が生まれ育ったのだそうです。