今読んでいる本。
それは、「子ども虐待から家族再統合ー東北における子ども虐待の現況と親子再統合への取組み」というもの。
東北6県に実際に起きた虐待および虐待死を例に挙げ、その家族構成や家族の背景、虐待の種類などが語られているものだ。その中には、あの秋田県で起きたわが子と隣家の幼い子どもを殺害した事件も含まれていた。
子育てをしていると、日々いろんなことがある。
自分の調子のいい時は、なんて幸せなんだろうと思うし、調子の悪い時はなんでこんなに腹が立ち、苛立つんだろうと落ち込む。
でも、すべての要素を混ぜ込むと、幸せを感じていい時が多いように感じる。(これは、今これを書いている自分の状態がいいから、かもしれないが。)
そんな、ほんわりと柔らかい生活を過ごしていると、ニュースに流れる「わが子を虐待」「虐待が疑われる女児が病院へ搬送」などというテロップに眉をひそめ、つらい思いをしてきた子どもを哀れみ、虐待へ走ってしまった保護者(同等の責任のある者)への同情の気持ちが沸きあがってくる。どうしてそこまでしなければならなかったのか・・・と。
久しぶりに児童虐待関係の本を読んで気付いたのは、「私の幸せボケ」だった。
わが子と笑いながら過ごしているこの瞬間を、罵倒する声に怯えている子どもが存在しているかもしれない。
風呂場から聞こえるわが子たちのはしゃぐ声の中、どこかの家ではお風呂に何日も入らせてもらえず、トイレにも行かせてもらえず折檻されている子どもがいるかもしれない。
「そんなのかんけーねー」とか言って笑っている時に、ごはんを与えられずに餓死しそうな子どもがいるかもしれない。
自分の幸せの裏に存在する、こういう影の存在を嘆いたところで、私に何かができるとは限らない。こうしてここに記すことでも、何かが変わるとも思わない。
ましてや、今、この瞬間無慈悲な虐待を受けている子どもたちに、助けの手を差し伸べることすら、できないのだ。
虐待の存在する家族への介入の難しさは、この本を読めば分かる。
様々な形の家族が存在し、また複雑な人間関係だったり、虐待をしている親が、もう一方の親、または第3者からのドメスティックバイオレンスの対象となっているケースもあるからだ。
犯罪を犯してしまった人間。
犯罪に走るようになるまでには、何枚ものイエローカードが重なっていると、警視庁で働く女性の講座で聞いたことがある。
何枚ものイエローカードが重なって重なって、とうとうもう重なりきれなくなって、レッドカード(犯罪)へと走るというのだ。このレッドカードになるまでに、一枚でも、イエローカードを出されずに済むような事や、人に出会うことができれば、犯罪に走らなくてもよかったかもしれないのだ。
虐待も、もしかしたら同じかもしれない。
どこかで、狂った歯車を軌道修正することができる出会いや、気付きがあれば、もしかしたら最悪の状態までには至らなかったかもしれない。
人を救えるのは、人だと思うから。
どこかで出会う時があるかもしれない深刻な家族がいたら、何かを気付いてもらえるような人になっていたい。
そう思った、読後感想文。
それは、「子ども虐待から家族再統合ー東北における子ども虐待の現況と親子再統合への取組み」というもの。
東北6県に実際に起きた虐待および虐待死を例に挙げ、その家族構成や家族の背景、虐待の種類などが語られているものだ。その中には、あの秋田県で起きたわが子と隣家の幼い子どもを殺害した事件も含まれていた。
子育てをしていると、日々いろんなことがある。
自分の調子のいい時は、なんて幸せなんだろうと思うし、調子の悪い時はなんでこんなに腹が立ち、苛立つんだろうと落ち込む。
でも、すべての要素を混ぜ込むと、幸せを感じていい時が多いように感じる。(これは、今これを書いている自分の状態がいいから、かもしれないが。)
そんな、ほんわりと柔らかい生活を過ごしていると、ニュースに流れる「わが子を虐待」「虐待が疑われる女児が病院へ搬送」などというテロップに眉をひそめ、つらい思いをしてきた子どもを哀れみ、虐待へ走ってしまった保護者(同等の責任のある者)への同情の気持ちが沸きあがってくる。どうしてそこまでしなければならなかったのか・・・と。
久しぶりに児童虐待関係の本を読んで気付いたのは、「私の幸せボケ」だった。
わが子と笑いながら過ごしているこの瞬間を、罵倒する声に怯えている子どもが存在しているかもしれない。
風呂場から聞こえるわが子たちのはしゃぐ声の中、どこかの家ではお風呂に何日も入らせてもらえず、トイレにも行かせてもらえず折檻されている子どもがいるかもしれない。
「そんなのかんけーねー」とか言って笑っている時に、ごはんを与えられずに餓死しそうな子どもがいるかもしれない。
自分の幸せの裏に存在する、こういう影の存在を嘆いたところで、私に何かができるとは限らない。こうしてここに記すことでも、何かが変わるとも思わない。
ましてや、今、この瞬間無慈悲な虐待を受けている子どもたちに、助けの手を差し伸べることすら、できないのだ。
虐待の存在する家族への介入の難しさは、この本を読めば分かる。
様々な形の家族が存在し、また複雑な人間関係だったり、虐待をしている親が、もう一方の親、または第3者からのドメスティックバイオレンスの対象となっているケースもあるからだ。
犯罪を犯してしまった人間。
犯罪に走るようになるまでには、何枚ものイエローカードが重なっていると、警視庁で働く女性の講座で聞いたことがある。
何枚ものイエローカードが重なって重なって、とうとうもう重なりきれなくなって、レッドカード(犯罪)へと走るというのだ。このレッドカードになるまでに、一枚でも、イエローカードを出されずに済むような事や、人に出会うことができれば、犯罪に走らなくてもよかったかもしれないのだ。
虐待も、もしかしたら同じかもしれない。
どこかで、狂った歯車を軌道修正することができる出会いや、気付きがあれば、もしかしたら最悪の状態までには至らなかったかもしれない。
人を救えるのは、人だと思うから。
どこかで出会う時があるかもしれない深刻な家族がいたら、何かを気付いてもらえるような人になっていたい。
そう思った、読後感想文。