人は、悩みだすとどうしても引きこもってしまう。
私もそう。
歩いていないと、すぐに思考も停止。
停止すると、何をするにも「楽しい」と感じられない。
子どもと接することも、「嫌だ」と感じる。
夫と話すことも、「面倒」と思う。
自分の両親に電話することも、「億劫」と考えてしまう。
そして、友人に会うことも、「やめておこう」と引っ込んでしまう。
人の悩み方には、その人なりのパターンがあると思う。
それと同時に、悩みの解決方法にも、ある一定のパターンがあるように思う。
私の場合、
その名前のごとく、歩くのがストップすると悩みだす傾向にある。
きっかけは、誰かに言われたマイナス要素とか、子どもの病気で外出できなかったとか、自分の思うとおりに動けない自分へのもどかしさとかが主なきっかけ。
まずは引きこもって、なんにもしない。
家事・育児以外は、なんにもしない。
パソコンも見ない。
メールもしない。
それがしばらく続いた後、誰かとしゃべりだす。
メールで相談しだす。
元気で、しかもいつも肯定的な働きかけをしてくださる方に連絡を取る。
パソコンを開く。
自分の描くものを検索して、自分の考え方がきちんと社会に適応しているか確認する。
もどかしいのは、いつものことだ。
頭が悪い、そうなんだ。私ってば、頭で考えてもそれをどのように実行するかとか、システムを考えるのがとっても苦手。
なんだかアンバランス。
そうこうしていると、「となりんち」の日がやってくる。
ここですっかり復活する。
自分の居場所があるから?
みんなが優しいから?
なんとなく使命感が出るから?
責任感が生まれるから?
何が何でも、人と話すから?
そのすべて、だと思う。
これらすべてがあるから、私はまた元気になる。また頑張ろうと思う。
人は人でしか癒されない。
悩んできる真ん中のときは、人に会いたくないけれど、
人に会いたくなったら、となりんちに来て、誰かをつかまえておしゃべりしてみよう。
自分のこと、助けを待っていても、誰も助けてはくれない。
自分自身で動かなければ、気付かれずに、素通りしてしまうよ。
人はいつでも、気付けるわけではないから。
どうか、勇気を出して。出てきてほしいな。
私みたいに悩める人、たくさんいるんじゃないのかな?
私もそう。
歩いていないと、すぐに思考も停止。
停止すると、何をするにも「楽しい」と感じられない。
子どもと接することも、「嫌だ」と感じる。
夫と話すことも、「面倒」と思う。
自分の両親に電話することも、「億劫」と考えてしまう。
そして、友人に会うことも、「やめておこう」と引っ込んでしまう。
人の悩み方には、その人なりのパターンがあると思う。
それと同時に、悩みの解決方法にも、ある一定のパターンがあるように思う。
私の場合、
その名前のごとく、歩くのがストップすると悩みだす傾向にある。
きっかけは、誰かに言われたマイナス要素とか、子どもの病気で外出できなかったとか、自分の思うとおりに動けない自分へのもどかしさとかが主なきっかけ。
まずは引きこもって、なんにもしない。
家事・育児以外は、なんにもしない。
パソコンも見ない。
メールもしない。
それがしばらく続いた後、誰かとしゃべりだす。
メールで相談しだす。
元気で、しかもいつも肯定的な働きかけをしてくださる方に連絡を取る。
パソコンを開く。
自分の描くものを検索して、自分の考え方がきちんと社会に適応しているか確認する。
もどかしいのは、いつものことだ。
頭が悪い、そうなんだ。私ってば、頭で考えてもそれをどのように実行するかとか、システムを考えるのがとっても苦手。
なんだかアンバランス。
そうこうしていると、「となりんち」の日がやってくる。
ここですっかり復活する。
自分の居場所があるから?
みんなが優しいから?
なんとなく使命感が出るから?
責任感が生まれるから?
何が何でも、人と話すから?
そのすべて、だと思う。
これらすべてがあるから、私はまた元気になる。また頑張ろうと思う。
人は人でしか癒されない。
悩んできる真ん中のときは、人に会いたくないけれど、
人に会いたくなったら、となりんちに来て、誰かをつかまえておしゃべりしてみよう。
自分のこと、助けを待っていても、誰も助けてはくれない。
自分自身で動かなければ、気付かれずに、素通りしてしまうよ。
人はいつでも、気付けるわけではないから。
どうか、勇気を出して。出てきてほしいな。
私みたいに悩める人、たくさんいるんじゃないのかな?