人の話を聴くとき、
同じ話なのに、ある人の話した話なら「いい話」と思えるのに、
別の人が話したら「疑ってしまう話」に聞こえることがあります。
たとえば、知人のAさんが
「四葉のクローバーを持っていたら幸せになるんだって。」と言ったとします。
私は、Aさんとは最近知り合ったばかりで、あまりよく知りはしませんが、信頼しています。
そのAさんの発する言葉には、とても共感することができます。
「そうなんだぁ。探してみよう!」と素直に思うことができました。
一方、Bさんが同じことを話してくれました。
「四葉のクローバーを持っていたら幸せになるんだって。」
私は、Bさんの言葉に
「私って、幸せに見えないのかな?なんでそんなこと言うんだろう?」と思ってしまいました。
Bさんと知り合ったのは、Aさんよりも少し前ですが、
苦手なわけでも、嫌いなわけでもなく、普通に接することのできる知人の一人です。
あ、これはあくまでも分かりやすく説明したいから、参考に取り上げているだけで、実際に起こったことではないし、特定の人物でもないので、気になさらぬようにお願いします。
同じことを話してくれたのに、なぜ私の捉え方はまったく違ったものになってしまったのでしょう?
人は、自分の鏡だと申します。
私にとって、Aさんと対面して見せられる鏡の自分は、
信頼するということだったのかもしれません。
一方、Bさんと対面した時に見える鏡に映った自分は、
疑いをもって物事を観察するということだったのかもしれません。
人は、相手の言葉や態度をいったん自分のものさしと整合して、
自分の考えを整理するのではないか?と思うのですが、もしそうなら、
相手の言動を「自分の考え」というフィルターに通して濾しながら、
自分らしい答えを見出すということを無意識にしているように思える時があります。
そのフィルターがどんなフィルターなのか?
信頼しているというフィルターなのか、
疑念を抱くというフィルターなのか、
ねたみというフィルターなのか、
尊敬というフィルターなのか・・・
それらによって、人の言葉や行動は、どんな風にでも取れてしまうのではないでしょうか?
同じことを、同じ人に言われても、
それを聞いたときの自分の状態(フィルター)によっても、
まったく違った見解に至るときも、多々ありますから・・・。
この人をよく知らなければ!と思う相手
その人と接する時の自分のフィルターが曖昧なのが心地悪いと感じているとして、
どうしたらいいのかなぁ?仲良くなりたいなぁ?と思っている人がいるとして、
まずは、自分なんだな・・・と
自分のフィルターをクリアなものにしないと、
相手のフィルターは濁るばかりなんだなと思う今日この頃なんであります。
人間とはまったく、うねうねと動きがあって、
へこんだり、ジャンプしたり、調子がよかったり悪かったりと
様々に変化していて、楽しいものです。
そして、思うのは、その様々な変化には、実は変動しながらもそのサイクルがあるのではないか?
そのサイクルはまるで、宇宙に浮かぶ星が周回するように、
一定なんじゃないか?とも思ってしまいます。
私たちの心の動きは、実はもっと単純明快で、ただぐるぐるぐるぐると
同じところを回っているだけなんじゃないか?
太陽の周りを何十億年も回る地球のように。
だから、思うのです。
悩め!自分!!と
愛しいぞ!自分!!と
それで結局、そのフィルターをどうすればもっと素敵なことになるのかは、
今もって、奮闘中だということです。。。
少し見えているのは、
やはり何事にも「感謝」すること。。。
これは、不変のテーマですね。。。
同じ話なのに、ある人の話した話なら「いい話」と思えるのに、
別の人が話したら「疑ってしまう話」に聞こえることがあります。
たとえば、知人のAさんが
「四葉のクローバーを持っていたら幸せになるんだって。」と言ったとします。
私は、Aさんとは最近知り合ったばかりで、あまりよく知りはしませんが、信頼しています。
そのAさんの発する言葉には、とても共感することができます。
「そうなんだぁ。探してみよう!」と素直に思うことができました。
一方、Bさんが同じことを話してくれました。
「四葉のクローバーを持っていたら幸せになるんだって。」
私は、Bさんの言葉に
「私って、幸せに見えないのかな?なんでそんなこと言うんだろう?」と思ってしまいました。
Bさんと知り合ったのは、Aさんよりも少し前ですが、
苦手なわけでも、嫌いなわけでもなく、普通に接することのできる知人の一人です。
あ、これはあくまでも分かりやすく説明したいから、参考に取り上げているだけで、実際に起こったことではないし、特定の人物でもないので、気になさらぬようにお願いします。
同じことを話してくれたのに、なぜ私の捉え方はまったく違ったものになってしまったのでしょう?
人は、自分の鏡だと申します。
私にとって、Aさんと対面して見せられる鏡の自分は、
信頼するということだったのかもしれません。
一方、Bさんと対面した時に見える鏡に映った自分は、
疑いをもって物事を観察するということだったのかもしれません。
人は、相手の言葉や態度をいったん自分のものさしと整合して、
自分の考えを整理するのではないか?と思うのですが、もしそうなら、
相手の言動を「自分の考え」というフィルターに通して濾しながら、
自分らしい答えを見出すということを無意識にしているように思える時があります。
そのフィルターがどんなフィルターなのか?
信頼しているというフィルターなのか、
疑念を抱くというフィルターなのか、
ねたみというフィルターなのか、
尊敬というフィルターなのか・・・
それらによって、人の言葉や行動は、どんな風にでも取れてしまうのではないでしょうか?
同じことを、同じ人に言われても、
それを聞いたときの自分の状態(フィルター)によっても、
まったく違った見解に至るときも、多々ありますから・・・。
この人をよく知らなければ!と思う相手
その人と接する時の自分のフィルターが曖昧なのが心地悪いと感じているとして、
どうしたらいいのかなぁ?仲良くなりたいなぁ?と思っている人がいるとして、
まずは、自分なんだな・・・と
自分のフィルターをクリアなものにしないと、
相手のフィルターは濁るばかりなんだなと思う今日この頃なんであります。
人間とはまったく、うねうねと動きがあって、
へこんだり、ジャンプしたり、調子がよかったり悪かったりと
様々に変化していて、楽しいものです。
そして、思うのは、その様々な変化には、実は変動しながらもそのサイクルがあるのではないか?
そのサイクルはまるで、宇宙に浮かぶ星が周回するように、
一定なんじゃないか?とも思ってしまいます。
私たちの心の動きは、実はもっと単純明快で、ただぐるぐるぐるぐると
同じところを回っているだけなんじゃないか?
太陽の周りを何十億年も回る地球のように。
だから、思うのです。
悩め!自分!!と
愛しいぞ!自分!!と
それで結局、そのフィルターをどうすればもっと素敵なことになるのかは、
今もって、奮闘中だということです。。。
少し見えているのは、
やはり何事にも「感謝」すること。。。
これは、不変のテーマですね。。。
たまに、後者のBさんが言ってくれた後のような気持ちになることがあります。
これでは、相手の方にもそう思われしまうことありますよね・・・。
波長の合う、合わないもあるといいます。。。
自分の波長とは、4の倍数の波長の方とは合うのだそうですよ?
そんなことも考えつつ、日々学んでいます。自分を責めるのではなく、自分をクリアにしていくと考えたいこの頃です。