数年前の公演の話になる。
日本も今より少し前の時期は、地方自治体、県に経済的余力があり、地方で、バレエ公演の良い催しをしてくれた時期があり、ギラギラに商業主義というでもなく、掘り出し物的な公演が幾つかあった。
当時の芸術監督が、鈴木忠志だった時に、資金余力があったのか、某地方の劇場で、グリゴローヴィチ(ギャラ高そう?)率いる「クラスノダールバレエ団」を呼んでくれた。「白鳥の湖」もやって、これは当然、普通に良かった。ところが、その次は勝手が違った。
演目は、グリゴローヴィチ振付の改訂版「ロミオとジュリエット」。
プリマは円熟期のエレーナ・クニャジコーワで、素晴らしかった。
申し訳ないけど、自分が生で見たインナ・ペトロワや、DVDでのナタリア・ベスメルトノワのジュリエットと、同じ版の踊りかと見まごう程、差がついた。ついでに、若くみずみずしく見えた。クニャジコーワは、若い時は私には未熟に感じられたバレリーナだった。この人も「人生イロイロ」だが、先生にだけは恵まれたらしく、本当に伸びた。
それと、韓国人の一生懸命なロミオ役のサポートが、プリマ的には上手じゃない様子。プリマは、しかめっつらしてアダージョ踊ってた。クラスノダールの若いマキューシオ役が、柔らかい身体にしなやかな感性で、この、音楽が好きで地に足のつかない、どこか頼りない青年の役にハマってた。
ただ、「グリゴローヴィチ振付」は、難しい。技術的にも高度な要求を、コールドまでに求めてゆく。
どうもこのバレエ団の人々は、この老練の振付家を、敬愛してやまない様子だ。こんな体の壊れそうなめちゃめちゃな振付を、喜んで踊ってるようだった。気が知れないと言うのか、微笑ましいと言うべきか。ただ、なんだか作品世界が、暗い。ハッピーな「白鳥」(ここの版はハッピーエンド)とは、勝手が違う。
元の版を上演したボリショイバレエ団は、男性舞踊家たちが踊りも個性もど派手なので、「昔のロシア」的な陰鬱な暗さのある作品でさえも、華やかに見せうる底力を持っていたと悟った。
そして、終幕。
バレエの「ロミオとジュリエット」は、ふつうは、最後に主役二人が死んで、諍いをしていた両家が、その尊い犠牲のもとに和解する。見てるこっちも、そういう先入観があるものだから・・・。
ところが、この「改訂版」は、ボリショイバレエでやってたものとは違う!
最後にロミオとジュリエットは死ぬ。
けれど。
いがみ合う両家の争いは、終わらないのだ!
「え?えええええ~~~???!!」と、あまりの暗さに、客電つくまで、ショックを受けてしまった!
その時「感動した」と言ったら、嘘になる。問題は何も解決していない。
恋人たちは無辜の死か!なんて暗い結末なんだ!ボ~ゼン・・・。
ショックで固まってる私をよそに、客電がつくと、近くの席の青年が、泣いていた。私の心にかすらなかったステージも、この方の胸には、響いたようだ。何を思って泣いているのだろう。恋人たちの悲しい運命か?
帰路に着き、どのタイミングだったか忘れたが、ニュースを見た。アフガン問題かなにかだったかもしれない。
急に、はっとなった。
グリゴローヴィチ改訂版は、「愛は終わる。けれど、憎しみは終わらない!」と言う内容だった。現実のニュースを見て、「あれって、現実そのものじゃないか!」と思った。急に、見た舞台が意義を帯びてきた。
旧版「ロミジュリ」が、「愛は終わる。そして争いは終わる」だった。
新版は、「愛は終わる。だけど、憎しみは終わらない」。民族紛争とか見てると、実際、争いは終わらない。憎しみは、歯止めなく連鎖する。
舞台は、暗いし、救いようのないラストに思えたけれど、確かに、現実には、愛は終わっても、憎しみは、終わってなんかいない!!二人の愛で終わるなんて、甘い!
アフガンでも、イラクでも。パレスチナでも。あちらこちらで。これからも連鎖してゆくのだ。問題提起と思えば傑出した芸術だと、観劇直後とは、180度舞台への評価が変わった。
芸術の感動にも、意義にも色々ある。舞台を見てる時に解る事もあれば、後になって、何かのきっかけで思い出したり、道を歩いている時、急にあっと思うときもある。
舞台の完成度だけが、全てでもないんだ。
グリゴローヴィチの現在性に、驚くばかりだった。ほとんど前衛の芸術みたいだと思う時がある。
それと、ここのバレエ団を見た時は、いつもなぜかお客さんがとても良かった。
日本も今より少し前の時期は、地方自治体、県に経済的余力があり、地方で、バレエ公演の良い催しをしてくれた時期があり、ギラギラに商業主義というでもなく、掘り出し物的な公演が幾つかあった。
当時の芸術監督が、鈴木忠志だった時に、資金余力があったのか、某地方の劇場で、グリゴローヴィチ(ギャラ高そう?)率いる「クラスノダールバレエ団」を呼んでくれた。「白鳥の湖」もやって、これは当然、普通に良かった。ところが、その次は勝手が違った。
演目は、グリゴローヴィチ振付の改訂版「ロミオとジュリエット」。
プリマは円熟期のエレーナ・クニャジコーワで、素晴らしかった。
申し訳ないけど、自分が生で見たインナ・ペトロワや、DVDでのナタリア・ベスメルトノワのジュリエットと、同じ版の踊りかと見まごう程、差がついた。ついでに、若くみずみずしく見えた。クニャジコーワは、若い時は私には未熟に感じられたバレリーナだった。この人も「人生イロイロ」だが、先生にだけは恵まれたらしく、本当に伸びた。
それと、韓国人の一生懸命なロミオ役のサポートが、プリマ的には上手じゃない様子。プリマは、しかめっつらしてアダージョ踊ってた。クラスノダールの若いマキューシオ役が、柔らかい身体にしなやかな感性で、この、音楽が好きで地に足のつかない、どこか頼りない青年の役にハマってた。
ただ、「グリゴローヴィチ振付」は、難しい。技術的にも高度な要求を、コールドまでに求めてゆく。
どうもこのバレエ団の人々は、この老練の振付家を、敬愛してやまない様子だ。こんな体の壊れそうなめちゃめちゃな振付を、喜んで踊ってるようだった。気が知れないと言うのか、微笑ましいと言うべきか。ただ、なんだか作品世界が、暗い。ハッピーな「白鳥」(ここの版はハッピーエンド)とは、勝手が違う。
元の版を上演したボリショイバレエ団は、男性舞踊家たちが踊りも個性もど派手なので、「昔のロシア」的な陰鬱な暗さのある作品でさえも、華やかに見せうる底力を持っていたと悟った。
そして、終幕。
バレエの「ロミオとジュリエット」は、ふつうは、最後に主役二人が死んで、諍いをしていた両家が、その尊い犠牲のもとに和解する。見てるこっちも、そういう先入観があるものだから・・・。
ところが、この「改訂版」は、ボリショイバレエでやってたものとは違う!
最後にロミオとジュリエットは死ぬ。
けれど。
いがみ合う両家の争いは、終わらないのだ!
「え?えええええ~~~???!!」と、あまりの暗さに、客電つくまで、ショックを受けてしまった!
その時「感動した」と言ったら、嘘になる。問題は何も解決していない。
恋人たちは無辜の死か!なんて暗い結末なんだ!ボ~ゼン・・・。
ショックで固まってる私をよそに、客電がつくと、近くの席の青年が、泣いていた。私の心にかすらなかったステージも、この方の胸には、響いたようだ。何を思って泣いているのだろう。恋人たちの悲しい運命か?
帰路に着き、どのタイミングだったか忘れたが、ニュースを見た。アフガン問題かなにかだったかもしれない。
急に、はっとなった。
グリゴローヴィチ改訂版は、「愛は終わる。けれど、憎しみは終わらない!」と言う内容だった。現実のニュースを見て、「あれって、現実そのものじゃないか!」と思った。急に、見た舞台が意義を帯びてきた。
旧版「ロミジュリ」が、「愛は終わる。そして争いは終わる」だった。
新版は、「愛は終わる。だけど、憎しみは終わらない」。民族紛争とか見てると、実際、争いは終わらない。憎しみは、歯止めなく連鎖する。
舞台は、暗いし、救いようのないラストに思えたけれど、確かに、現実には、愛は終わっても、憎しみは、終わってなんかいない!!二人の愛で終わるなんて、甘い!
アフガンでも、イラクでも。パレスチナでも。あちらこちらで。これからも連鎖してゆくのだ。問題提起と思えば傑出した芸術だと、観劇直後とは、180度舞台への評価が変わった。
芸術の感動にも、意義にも色々ある。舞台を見てる時に解る事もあれば、後になって、何かのきっかけで思い出したり、道を歩いている時、急にあっと思うときもある。
舞台の完成度だけが、全てでもないんだ。
グリゴローヴィチの現在性に、驚くばかりだった。ほとんど前衛の芸術みたいだと思う時がある。
それと、ここのバレエ団を見た時は、いつもなぜかお客さんがとても良かった。