気の向くまま足の向くまま

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贅沢すぎる時間

2018-10-17 07:11:33 | 

 

真珠の首飾りの女






 

手紙を書く女






 

リュートを調弦する女




 上野ではフェルメール展が開催されている。
まずは今回来日した作品の中で僕が一番気に入っている3枚を載せてみた。

 この展示会はまず同時代のオランダ絵画を何点か展示して、そのあとフェルメールルームといわれるフェルメールの作品だけを納めた部屋を作りそこに全8点(もう一点は1月9日から展示)おかれていた。
 
 フェルメールルームに入って彼の作品を見始めると、やはり、その前に見た同時代のオランダ絵画とどうしても比較せざるを得なくなる。そうして感じるのはやはりいかにフェルメールの作品が傑出しているかということ。違いは否が応でも分かる。
 彼の死後約100年、フェルメールはほぼ忘れ去られていた。18世紀になってふたたび再評価され歴史の暗幕の中から浮かび上がってくるのだが、そうなるのはやはり必然だろうと思った。それほどまでに彼と他の画家たちの画家としての力量には歴然としすぎるほどの差がある。

 そうして不遜ながら正直に書かせていただくと、フェルメール自身の作品にも質の優劣が結構はっきりしていると感じた。
これは今回これだけの作品が一堂に並べられているのを見てこそ感じられたのだと思う。

 そして20年近い画家としてのキャリアがあるにもかかわらず、生涯わずか40点弱という寡作……
彼のあまりにも傑出した作品を見て「謎」といったのは、たしかプルーストだったと思ったが、今上にあげたことなどもまさに「謎」である。

 そしてプルーストではないが、彼の作品に表れているその際立った技量、同時代のみならず、西洋絵画の全歴史を通じてみても、比肩できるものが極めて極めて少数を除いてほぼいない、傑出して高いその作品の質。
 このどれをとってもまさにエニグマ、謎という言葉がこれほど当てはまる画家もないだろう。

 でも、たぶんそんなことはどうでもいいのかもしれない、このプルーストでさえ表現する言葉を持てなかったほど畏敬の念を抱いた作品群、あの光、それとあいまって絵画そのものが醸し出す「ある超越した精神的領域、世界」…それに心深くひたることに比べれば、「知識」などはどうでもいいことになる。
 だから、ぼくはフェルメールの作品を見るときだけでなく、ほかのどの美術展に行っても音声ガイドは聞かない。もしそういうものを聞くと、それに気を取られて「感じとる」ことができなくなるからだ。

 最後に一つだけ思ったのは、名画というのはいっぺんにたくさん見ないほうがいいということだ。
少なくとも僕はそう思った。それはもしかしたら僕の感受力に限界があるからかもしれない。あるいは、僕だけではなく人間一般の普遍的なものなのかもしれない、あるいはその時の僕の精神状態にもよるのかもしれない。
 いずれにしても、はるか海の向こうからくる大傑作を何か月も前から楽しみにして、ほかのそれと比べれば「平凡な」作品群をかいくぐるようにしてようやくあこがれの傑作1~2点をみつけてみるほうがいいような気がする。

 まぁ、これは蛇足かもしれない。
感謝、感謝、このような体験ができる環境に自分がいたことに、ただただ感謝である。



 

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